7 異多禍

「父さん!! 俺が戻って来るまで、ここを動かないでくれ!!」

 

 光紀は、突然の異変に唖然としている父親の肩に手を置き、強く言い渡す。

 

「皆さんはついて来てください。何か外にいます」

 

 光紀が言うまでもなく、全員蔵の外へ走り出る。

 残暑の季節、日差しは強くなりつつある時間帯にも関わらず、何故か外の風が恐ろしく冷たい。

 風花がちらりと目の前を横切ったのを見て、真名がぎょっとする。

 

 庭に自分たち以外の人影はないように思えるのだが……

 

「光ちゃん!? お父さん!? 皆さん、何が……」

 

 母屋の方から光紀の母、祥子の声がして、光紀がはっと振り向く。

 

「母さん!! 駄目だ、外へ出るな!! 俺がいいと言うまで、家の中にいて外へ出るんじゃない!!」

 

 ただならぬ息子の声に打たれたように、祥子が玄関に引っ込むのが見える。

 

「あら、見てよあの子。ご挨拶に来るなんて、律儀だと思わない?」

 

 星美が、白い手で、厚い土塀の外を指し示す。

 本来なら裏山に続く林しかないはずの……

 

「え……い……ひぁっ!!」

 

「あ……あ……わぁあああぁっ!!」

 

 真名、それに善巳が思わず悲鳴を上げる。

 

 高いがっちりした土塀の外側、何か背の高い、大まかには人影に似たものがそそり立っている。

 それは人間を恐ろしい悪意でもって戯画化したものに似る。

 ぼんやり薄もやなのか体毛なのかわからぬものに彩られた巨躯。

 頭部らしい膨らみの中にぎらつく赤い光が二つ見えるのは目であろうか。

 それは、土塀の上に肩が出ている巨人。

 残暑を押しのけ、冷気の塊が押し寄せる。

 それらが都合二体。

 塀の上から敷地内に巨大な腕を伸ばし、光紀たちを捕まえようとする。

 

「異多禍(イタカ)か……!!」

 

 光紀の腕の先に、あのハスターの加護を示す、呪われた造形が現れる。

 あらゆるものに呪われた生き物にも似たそれは、光紀の腕の中で異様な光を放ち、そして。

 

 大音声。

 

 左の異多禍の胸から首の付け根あたりが、爆ぜる。

 

 奇怪な色の体液と肉を飛び散らせながら、異多禍はそのまま塀の外に崩れ落ちて見えなくなる。

 

「わ、わ、うわあああああ!!」

 

 善巳は、目の前に迫って来た異多禍の腕に悲鳴を上げ。

 

 同時に、彼の体の周囲から、にじみ出るように、生ける炎の塊が数体湧き出て、異多禍に突進する。

 真っ白な炎に触れられた異多禍の肉体が爆発的に燃え上がり、やはり隣のと同じく、塀の外に崩れ落ちる。

 塀の中からも見える、異多禍が燃え尽きていく炎。

 

「あら、刑事さん。『ハスターの銃』を使いこなしているわね。獣医さんも、助けの呼び方がわかってきたかしら?」

 

 私の出番てないわね?

 くすくす笑いながら、星美が満足気に呟く。

 

「わあ……凄い。星の精を召喚する間もなかったですよ」

 

 真名が、手にしていた魔術書を、バッグにしまう。

 星美が、光紀を振り向く。

 

「召喚されていた風の又三郎ちゃんは、さっきの二体だけだったようね。それ以外の気配はないわ」

 

 光紀がうなずく。

 

「召喚した者は、まだ近くにいますか?」

 

「もう逃げたようね。でも、又三郎ちゃんを同時に二体も呼べたということは、本格的なハスター系の召喚術を修めているってことね。あなたのおうちから盗み出した覚書の中にでも書いてあったのかしら?」

 

 光紀ははたと思いついたように考え込む。

 

「なるほど……もう覚書を手に入れた以上、この家の人間は邪魔だ、と」

 

「息子のあなたが、警視庁からこちらに派遣されてくるのも予期していたかもね。邪神教団の人間の中で、異象捜査課のエースであるあなたを知っている人は多いでしょうしね?」

 

 傍で聞いていた善巳がぎくりとした顔をする。

 

「……それって岩淵さんが狙われたかも知れないってことッスか」

 

 星美が、ヴェールの頭部をうなずかせる。

 

「刑事さんは高校生の頃、『黄の王』に扮しているんだもの。いけにえに最適ということも考えたのかもね?」

 

 光紀は、フン、と鼻を鳴らす。

 手の中の「ハスターの銃」は、そのまま持っておくようだ。

 

「両親を家の中に連れて行きます。その後、異多禍の死骸を確認しましょう」

 

 光紀は、ちょっと待っていてください、という言葉と共に、蔵の中にへ行っていく。

 

 

◇ ◆ ◇

 

「これは……これが、イタカ?」

 

 真名は、生唾を飲み込み、震える手を抑えながらカメラのシャッターを切る。

 

 岩淵家を取り囲む林の中の一角、邪神イタカの死骸が二体、無造作に転がっている。

 転がっているとはいっても、片方はすっかり燃えて焦げた骨だけになっているが、もう片方は太い首がちぎれたような状態で、体液や肉片に囲まれて倒れている。

 

 まさに巨人だ。

 人間を見下す何者かが人間に似せた――あるいは、人間がこいつらから作られたようにも思えてくる。

 

「この辺の子供は、たいてい例外なく、気味悪い子脅しの話を親から言い聞かされて育ちます。私も親に言われたものですよ――『言うことを聞かないと、山から異多禍が降りてきてさらっていかれるぞ』とね」

 

 光紀が淡々と告げる。

 

「異多禍……」

 

 善巳が、その名を反芻する。

 

「異なるものが多い、禍(わざわい)……そう書いて、この辺では異多禍。子脅しの怪物なのに、定期的に『本当に見た』という目撃談が、ご当地サイトの掲示板に書き込まれるのですが、御覧の通り実在しますからね」

 

 光紀が、高くなった日が差し込む木々の枝葉を仰ぐ。

 

「……たまたま、元からこの辺の山に住んでいた異多禍が、こちらのお宅の近くに来た……ということではないですよね? 襲ってきましたものね……」

 

 真名は、吐き気をこらえながら、相変わらず丁寧に写真を撮影していく。

 本当に戻しそうになったのだが、星美の糸がうなじにふれた途端に気力が湧いて来た。

 彼女がいてくれてありがたいと思う。

 

「そういうことがあるんだとしたら、冬ね。又三郎ちゃんの性質上、吹雪にまぎれて人間をさらっていくはずなの。こんな暑い時期にわざわざ人間の近くに来るのは、やはり人為的介入があるからね」

 

 星美がさらっと解説する。

 ようやく銃を収めた光紀がうなずき、善巳が自分の召喚の結果から目を逸らせないようだ。

 

「とにかく、地元警察に連絡しましょう。皆さんはここにいてください」

 

 光紀が、ポケットからスマホを取り出す。

 

 ようやく一通りの写真を撮り終えた真名も、何だか疲れたような善巳も、どこか面白そうな星美も、次に何が起こるのか、それぞれに見据えているようだった。