もう駄目だ。
倉持裕子(くらもちゆうこ)と津島亜由美(つしまあゆみ)は、その異様な生き物を見た瞬間にそう確信する。
さっきまでいた、郷土資料館の受付カウンターの中ではない。
どこか知らないが、周囲は、岩が浸食されたような滑らかな石壁に囲まれたそれなりの広さの空間になっている。
そこに、いたのだ。
そいつらが。
頭は犬に似ている。
ばかげているほど大きな口から覗く黄色い牙。
髪なのかたてがみなのか、赤っぽい毛がばらばらと降りかかって、その間から覗くぎらつく目。
ゴム製品のような濃い緑と、明るめの黄土色の、まだらの皮膚。
全体は人間に似ているが、なんで毛むくじゃらの手足の先が、馬みたいな蹄なんだろう?
そいつらは一匹、また一匹と、この部屋から続く石の通路からにじり寄って来たのだ。
四匹、いや、五匹。
訳がわからない。
彼女らにできることは悲鳴を上げるくらいだ。
その化け物がくわっと口を開けて突進してきて……
轟音。
一番彼女らに近かった化け物が爆薬でも仕掛けられていたように派手に散らばり、床にあれこれぶちまけられる。
「化け物ども、お前らの相手はこちらだ!!」
滑らかな男性の声が凛と張り上げられ、残りの化け物どもが振り向くと同時に、また一匹が爆散したのだ。
◇ ◆ ◇
「もう大丈夫です。お怪我はありませんか?」
光紀は「ハスターの銃」を空間のいずこかへとしまうと、震えている、あの資料館の受付の女性二人に声をかける。
彼女らは、悲鳴じみた声を上げると、光紀に取りすがって泣き出す。
「まさか受付の人たちまで、この空間に取り込まれていたなんて。他の人は……」
真名が、その広くなった谷底の空間をぐるりと見回し、自分たちが来たのとは別の方向に伸びる通路に目をやる。
「どうなんスかねえ。そもそも、ここを作った奴って、何でこんなことをするんスかね?」
何が目的なんスかね?
捜査の邪魔ってことなんスか……?
善巳は苦い表情で、石の地面に散らばる、グールたちの死骸を眺める。
光紀の銃撃で爆散した他、善巳の炎の精に灰にされて、焦げた骨の欠片が残る者、真名の星の精に吸い尽くされた者、そして星美の糸で細切れにされた者。
「困ったちゃんのことだもの。理由は『特にない』じゃないかしらね?」
星美がくすくす笑いながら推測する。
いや、彼女のこと、「見えている」方か。
「彼女たちをわざわざ残したのは、別の理由があると思うわよ?」
光紀が聞き咎めて振り返るより先に、池垣館長が、二人の受付員に向けて歩み寄る。
「倉持さん、津島さん!! 大丈夫だったか!? よかった無事で!!」
二人の受付員は、見知った顔を見ると、ますます泣き出す。
「館長―!!」
「変な、変な男の人が……!!」
池垣は眉を寄せる。
「変な男の人? 津島さん、何かされたのか? その人は?」
小柄な津島はしゃくりあげながら、首を横に振る。
「そういう訳じゃないんですけど。これを……ここに来る人に無事に渡すことができなかったら命はないって」
津島は、制服のポケットの中から、掌に収まるくらいの、半球状の磨かれた鉱物を取り出す。
うっすら淡く輝くそれは、月長石だろうか?
「失礼。それは?」
光紀が津島に尋ねる。
「わからないんです……ここに、着物の女の人が来るから、その人にだぐ……くら……とか何とか訊けばわかるって」
津島の目は、少し離れたところにいる着物姿の星美に向かっている。
「『ダグクラ』……?」
「ああ、『ダグ=クラターの逆角度』ね」
光紀が一瞬考え込んだ矢先に、星美がさくりと言い当てる。
「それを使えばここから出られるように設定したのね、困ったちゃん。あなた、津島さん、それはその一つだけ?」
「いえ……」
津島が視線を隣の倉持に向けると、彼女も、ポケットのなかからおずおずと同じような月長石の半球を取り出す。
「なんていうか、神主さん……みたいな恰好をした、多分若いと思うんですけど、男の人が来て、これを押し付けていって……」
倉持は振り返る。
「起点はあそこだって……」
全員の視線が、彼女の背後の石壁に向く。
突起じみた石台の上に、確かに彼女たちが持っているのと同じような月長石の半球が見える。
「……こちらは埋め込まれているな。ここを何が何でも起点にしないといけない訳か」
光紀が唸る。
「あの……『ダグ=クラターの逆角度』って、何スかそれ?」
善巳は、まるで耳慣れない言葉に、怪訝な顔をしたままだ。
「旧支配者の一柱、グラーキが地球に来る時に用いたとされる原理だとされていますね。要するに空間を飛び越える奴らの手法です」
光紀は淡々と説明する。
「なるほど。ここからも『タグ=クラターの逆角度』を用いて、空間を乗り越えて脱出しろという訳ですね」
真名は、倉持と津島の手の中にある月長石の半球を眺めやりながら、思わずといったように呟く。
「この白っぽい石って、何に使うんでしょう? その『タグ=クラターの逆角度』を作るってことなんでしょうけど、あの台の上で作れっていうことなんですかね?」
駆け出し魔女は、まだまだこの辺にの見当はつかない。
「違うわ、子猫ちゃん。もっと面積を広く、脱出したい人たちが全員がその角度の内側にいないとダメよ」
星美はさらっと断言する。
「この石の迷宮自体が、『タグ=クラターの逆角度』を描写する、真っ白なノートってところかしら? 誰か二人が、それぞれ特定の部屋にこの石を一個ずつ運んで、この部屋を起点に『タグ=クラターの逆角度』を描くのよ」
その言葉に、光紀も、真名も、善巳も顔を見合わせる。
一瞬だけ置いて、真名が名乗り出る。
「私が行きます。私と相馬先生でそれぞれ一個ずつ石を運ぶのが効率いいんじゃないですか? 私たちなら、自分の身は自分で守れますし。岩淵さんと八十川さんは、ここで館長さんと倉持さんと津島さんを護ってあげてください」
「そうね、私はそれで文句ないわ。お二人はどうなさるの?」
星美も賛同し、岩淵はちらっと善巳と視線を合わせてから考え込む。
「……そうですね。このメンバーの中では、魔術の心得のある宇津木さんと、そもそも時空間の邪神の娘の相馬先生が適任でしょうね……」
正直、それぞれ単独で送り出すのは気が引けると顔に書いてあるが、この際背に腹は代えられないというところだ。
光紀はうなずき。
それぞれの意志を確認したのだ。
◇ ◆ ◇
「これで最後!! 行け!!」
真名は、その空間にいた「砂に棲むもの」の最後の一匹に、星の精を殺到させる。
一瞬で血を吸い尽くされたその生き物は、すぐに動かなくなる。
「これが……」
奇怪に折り重なる死骸をまたぎ越し、真名はその部屋の奥の壁の突起に行きつく。
「ここに置けばいいのか……」
真名は心臓がバクバクするのを感じる。
独りぼっちはこんなに心細い。
今までは、師匠とも言うべき星美も、極めつけに頼りになる刑事の光紀も、無限のポテンシャルを感じさせる善巳もいた。
しかし。
今は、誰も「正解」を教えてくれない。
「これでいいはず……この部屋だって、事前に教えてもらった通りに来たんだから」
真名は震える手で突起の上のくぼみに、月長石の半球をはめ込む。
百万の色彩が、目の前に花開いたと思いきや。
真名は、目の前に広がった光景に、呆然としたのだった。