10 シュブ=ニグラス、栽松達也

「栽松隆也(うえまつたかや)というのは、警視庁の捜査一課の同僚であるのと同時に、個人的な友人でもありました」

 

 捜査対象者の自宅へ向かう車の中で、ハンドルを握った光紀は、真名たちにそう説明する。

 異多禍による襲撃の翌日。

 午前中の澄んだ光が車窓から差し込む時間帯。

 市内の一角にある、容疑者の一人、栽松達也(うえまつたつや)の自宅へ向かう道すがら。

 達也は、光紀のもう二度と正気の世界に戻って来ないであろう、栽松隆也の実兄である。

 彼は黄幡市内で、妻子と共に、一戸建て住宅で暮らしているはずだと、昨日光紀は両親から聞かされたのだ。

 

「やはりあいつも、この黄幡市の出身で……高校時代、クラブ活動を通して他校の生徒だったあいつと親しくなりましてね。偶然、進路が同じで。東京の同じ大学に進学し、同じ法学部でした。卒業後も同じ警視庁に志望して」

 

 何かと気が合ったのです。

 偶然にも、二年目に両方捜査一課に配属されましてね。

 あの事件に出くわしたのですよ。

 

 光紀がそう続けると、後部座席で星美と並んだ真名が質問を投げる。

 

「あの事件……というのは、星の精を召喚した殺人犯のこと、でしたっけ?」

 

「ええ。都内で起こった、最初は痴情のもつれによる殺人だと思われていた事件です。ある男が、知人の女性を殺害した。しかし、後から判明したところによりますと、その男は邪神教団……『聖海友愛団』の一員であり、女性を殺害したというのは、いけにえとしてだったのですよ」

 

 私と栽松も、捜査に当たりまして。

 車で逃走した容疑者を、この辺りまで追いかけてきました。

 光紀は更に説明を続ける。

 

「黄幡市内の廃墟に追い詰めることができたのですが……邪教徒の男はやけっぱちになって、あらんかぎりの呪文を唱えて、踏み込んだ私と栽松と、そして協力してくれた地元警察の警察官たちを襲いました。星の精による人死にが出たのは、その時です」

 

 光紀は重い溜息をつく。

 まだ無垢だったあの頃。

 

「当時は、この世界にあいつらがいるなんて思いもしなかった頃です。傷を負わされても、何が起こったのかわかりませんでした。それでも銃撃で、その邪教徒に傷を負わせることができました。しかし、奴はどこまでも邪教徒だった。最後の力で、『何か』を呼んだのです」

 

 真名は、その重苦しい響きに慄然とする。

 

「『何か』っていうのは……」

 

「私にもわかりません。邪教徒が自分をいけにえにして、何を呼んだのかなど。わかったことは、邪教徒を押さえようとした栽松が、至近距離でその『何か』を見てしまったらしいということ。そして……二度と戻って来られないくらいに、完全に栽松の人格が破壊されたということ」

 

 光紀が、ガン、と車のハンドルを叩く。

 

「……私と生き残りの警察官は、何故か現れた相馬先生によって助けられましたが、しかし、完全に精神が破壊された栽松はどうしようもありませんでした。あいつは、実家のある黄幡市郊外の精神病院に入院させられました。今もそこにいるはずです」

 

 真名は、思わず隣の星美を見る。

 彼女は、相変わらずヴェールの下に表情を隠しているが、ふと、思いついたように口を開く。

 

「あの時、最後に呼ばれて、私が追い返したのが何者か、知りたい? 岩淵さん」

 

 いきなりそんなことを言い出した彼女に、真名も善巳も、光紀も一瞬振り返る。

 

「えっ!? 先生が追い返したんスか!?」

 

 善巳が目を白黒させる。

 

「まあ、そうね。大変だったのよ、あの好奇心旺盛な女帝様に穏便にお帰りいただくのは」

 

 星美の言葉に、光紀がルームミラーの中から彼女を睨む。

 

「女帝様というと……シュブ=ニグラスということですか」

 

「ええ。そういうこと」

 

 星美がくすくすと笑う。

 

「人間が直に接するのに向いていないっていう点では、あの人って邪神の中でもなかなかですもの。基本真面目なお友達は、ひとたまりもなかったはずね」

 

「そうか……シュブ=ニグラス……」

 

 光紀は低くその神名を反芻する。

 

「まあ、今、それをあなたや、気の毒なお友達のお兄さんが知ったところでどうもならないけれど。でも、お友達がどうしてああなったのかは知っておきたいでしょう?」

 

「あの……シュブ=ニグラスさんって、どんな人ッスか?」

 

 善巳が、星美を振り返る。

 しかし、答えたのは光紀。

 

「奴らの中では珍しい、完全に女性の神格ですよ。だからといって穏便な訳でもないですがね」

 

 光紀は呻く。

 冷たい恐れと、矜持を同時に滲ませる口調。

 

「『千匹の仔を孕みし森の黒山羊』という呼称で知られますね。あまりに姿が恐ろしいせいか、奴の姿を直接見た者は少ないのです。少ないはずです、見たらああなるのではね……。大体、信者の前に姿を現すのは、奴の落とし子たちだと言われていますが」

 

 星美がそれを聞いてくすくす笑う。

 

「あら、そう嫌うもんじゃないわ。割と豊穣神としてのご利益は授けてくれる人だから、接し方によっては有難い人よ? 母性的って言うのかしらね?」

 

 光紀は形のいい鼻を鳴らす。

 

「あなた方に母性? そんな概念があるとは初耳だ」

 

 光紀は、おろおろしている助手席の善巳と、後部座席の真名をちらっと見やる。

 同情するように。

 

「騙されてはいけませんよ。そのご利益って、案の定いけにえと引き換えですからね」

 

「あっ……なるほど」

 

「一瞬有難く思えて来た俺が馬鹿だったッスね……」

 

 真名と善巳がおぞましい納得の仕方をする。

 

 車は、とある古びた一軒家の前の路上に滑り込む。

 四人が車から降りると、その家の、塀と庭に面したサッシ戸のカーテンが揺れる気配。

 

「あ、おられるみたいですね」

 

 光紀が、低い門扉を押し開き、コンクリートの低い階段を進んで、玄関口のチャイムを鳴らす。

 

「はい……」

 

 間もなく玄関から顔を出したのは、がっちりした雰囲気で短髪の、三十代くらいの男性だ。

 Tシャツとハーフパンツを身に着け、何か決意を秘めているのか、目の光が強い。

 

「失礼します。栽松達也さんですか?」

 

 光紀は、警察手帳を提示し、名乗る。

 

「私は、弟の隆也さんの同僚で、警視庁異象捜査課の、岩淵光紀と申します。昨日お電話した通り、お話を伺えれば。後ろの方々は、警視庁に協力してくださっている特別捜査員の方々です」

 

「お待ちしておりました。どうぞ」

 

 栽松達也は、全員を室内に通す。

 居間兼客間に入ると、まだまだ稼働中のクーラーの冷風が涼しい。

 レースカーテン越しに、ささやかな庭の草木が見える。

 

「すみません、嫁は仕事で、娘は幼稚園で、今家には誰もいなくて」

 

 達也は、自ら冷えた麦茶を持って来る。

 

「達也さん。お話を聞かせてください。〇月×日の夜12時くらいから、翌日の未明くらいの時間はどちらにおられましたか?」

 

 光紀が手帳を片手に、型どおりの事情聴取を始めると、達也はいささか緊張したように、唾を飲み込む。

 

「寝ていたはずですが……あの、それってあの神楽の道具が盗まれたって言う」

 

「そうですね、私の実家の蔵が破られて、神楽の筋書きを描いた覚書と衣装、一緒に入っていた石笛が盗まれました。達也さんは、そうしたものに興味はおありですか?」

 

 静かに問いかける光紀に、達也は緊張した様子でうつむく。

 

「ご両親に聞かれたんですね……。確かに、あの神楽を舞って儀式をすれば、何でも願いが叶うという話を聞きましたので……興味がないと言えば、嘘になります。しかし、盗みに入るだなんてそんな」

 

 光紀は、眼鏡の奥で目を光らせる。

 

「その興味というのは……弟さん、隆也さんの病状に関してのものですか?」

 

 達也が身を乗り出す。

 

「光紀さん。おわかりでしょう。あなただって、あいつをよく知っているはずじゃないですか。あの元気だった奴が、あんな……あんな……」

 

 声を震わせる達也に、声をかけたのは、星美である。

 

「もし万が一、あの『黄の王神楽』を舞ったところで、願いを叶えるには大きすぎる代償が必要よ。ああいうのには、基本、いけにえが要求されるの」

 

 しれっと告げた星美に、達也ははっと顔を上げる。

 

「いけにえ……」

 

「そうよ。昔は確かにこの辺でやっていた儀式みたいだけど、一年に一回いけにえの儀式があるなんていうのは禍々し過ぎるから、その当時の領主さんに止められたのよ。あなたなら、弟さんがこちらに帰って来られるのと引き換えに、どなたをいけにえになさるおつもり?」

 

 弟さんのお見舞いにも快く出かけてくれる優しい奥さん?

 それとも、可愛い盛りの娘さんかしら?

 

 達也は真っ青になる。

 まるで真冬の屋外に薄着で放り出された風情。

 

「俺は……俺はそんな……そんなつもりじゃ……そういう意味で岩淵さんに何としてでもって言った訳じゃ……!!」

 

 腰を抜かさんばかりの達也を、光紀はポンポンと叩いて落ち着かせる。

 

「大丈夫です、そこまで疑っている訳ではありませんよ。お気持ちもよくわかります……。しかし、『黄の王神楽』を舞えば、何でも願いが叶うというお話はどこで聞いたのですか?」

 

 達也は、やや落ち着きを取り戻す。

 

「春に地元テレビ局が、郷土資料館に関する番組を放送していて……そこの館長さんが、『黄の王神楽』の話をしていて……昔は願いが何でも叶うと信じられていて、かなり大掛かりな儀式も付いていて、神楽も今見られるよりだいぶ長かったと……」

 

 光紀はじめ、真名も、善巳も、星美も視線を見交わす。

 

「郷土資料館……館長といえば……」

 

 光紀が、手帳に文字を書き付けながら、かすかにうなずいたのだった。