5 魔術書

「魔術書……?」

 

 いきなり現れた不審も忘れ、真名は星美をまじまじ見詰める。

 耳慣れない「魔術書」とは、何のことだろう。

 昔読んだホラー小説にそんな言葉があったようななかったような。

 

「マスターすれば、魔法が使える本のことよ、子猫ちゃん」

 

 日傘をくるくるしながら、星美が笑う。

 ふわりと揺れるヴェール。

 

「魔法って……それ、本気で仰っているんですか」

 

 流石に真名は鼻白む。

 善巳も光紀も、思わず顔を見合わせているのが気配で伝わってくる。

 

「ああいう変な生き物がいるっていうことは認めたのに、魔法は否定するの? 変な子ね、あなたって。ああいう生き物と魔法が関係あるとは思わなくて?」

 

 不意にそう問われ、真名は胸を衝かれたように立ちすくむ。

 確かに、自然にありえない生き物を認めるのに、魔法は認めないのは矛盾している。

 しかし、日々の隅々まで支える現代的常識に逆らうのは、所詮一般人でしかない真名には――恐らくは善巳にも光紀にも――極めて難しい。

 

 星美は構わず言葉を続ける。

 

「ああいう不思議な、この世の法則に従っていないような生き物を呼び出す魔法というのもあるのよ。ああいう生き物は、放っておいたらそうそう簡単にこの世には現れないものだから、あれだけ頻繁に目撃されるのは、誰かが呼び出したからね」

 

 いきなり核心を突かれて、真名は目を見開く。

 が、彼女が口を開く前に。

 

「……失礼、相馬先生。では、あなたは、誰かがその魔法の一種で、あの血を吸う生き物を呼び出したと、そう仰るのですね?」

 

 光紀が、肩で真名を押しのけるようにして前に進み出る。

 

「あれだけのまとまった数が動いているということは、そうね。行動そのものは本能しか感じないけど、まとまった頻度で出現する、そのこと自体は作為を感じるわ」

 

 星美はさらりと肯定する。

 

「あの、あなたは、あの血を吸う生き物が何か、ご存知なんッスよね!? あれって、何なんスか!?」

 

 善巳も辛抱たまらなくなったように質問を口走る。

 

「わかるような名前を使うなら、あれは『星の精』ね」

 

 こんどもあっさり返された、やけにロマンチックな名前に、善巳ばかりか、真名も光紀も顔を歪める。

 

「は、星の……」

 

「素敵なのは名前だけね。護衛として使役できたら優秀って点で評価するなら、まあ、そちらでも素敵と言えないでもないけど。この場合、星の世界、つまり、『宇宙の彼方に住まう生き物』というほどの意味かしら」

 

 滑らかに淀みなく、星美はそう解説する。

 畏れている様子も気負いもなく、淡々と新しいスマホの性能でも品評するように。

 

「え……なんですかそれ。あの変な生き物、宇宙人とか、そういう……」

 

 真名が混乱しきったように問いかけると、星美はヴェールの下でくすくす笑う。

 

「知的生命体とは言い難いから、『人』ではないわね。宇宙には、こういう生き物が大昔から住んでいるのよ。資格と力のある者なら、魔法で呼びつけて使役できるっていうだけ」

 

 星美の言葉を、真名は反芻する。

 

「……誰かが魔法で、あの『星の精』を呼び出して、生き物を襲うように命令してる……?」

 

 星美のヴェールで覆われた頭部が上下に揺れる。

 うなずいたのだ。

 

「今のところ、それが最も考えられる線ね。そして、それを可能にした魔術書は、この屋敷にあるはずなの」

 

「失礼」

 

 光紀が手帳を片手に割り込む。

 

「何故、その魔術書がここにあるということを断言できるのでしょうか?」

 

 くすくすと、ヴェールの下で星美がまた笑う。

 

「私は、そういうことを感じ取れるのよ。魔法や、ああした生き物の気配や、もっと恐ろしいものの気配をね。この屋敷にあるのは、実効性のある魔術書のうちでも、なかなか面白いものよ。日本語では、『妖蛆の秘密(ようしゅのひみつ)』って呼ばれていたはずね」

 

 妖蛆の秘密。

 

 その奇怪な、全く耳慣れることはなさそうな響きに、真名はざわりとした気分を味わう。

 今すぐ逃げなければいけないような気もするし、今すぐその本に元に行かなければいけないような気もする。

 

「いや……いや、待ってくださいよ」

 

 善巳が慌てたように割り込む。

 

「あるのは魔術書だけじゃないんスよね!? その本に魔法の使い方が書いてあるんなら、絶対に魔法を実際に使っている”誰か”が存在しているはずなんじゃないスか!?」

 

 真名ははたと野生に還りつつある樹木に覆われた廃墟を睨む。

 そうだ、こんなところに「魔法を使っている誰かしら人間」がいるなど。

 こんなところでどうやって暮らしているのか?

 

「……その”誰か”が、まだ生きているなら、ね。誰かでいいのでしょうけど。どのみち、ここに『妖蛆の秘密』は存在しているのは間違いないわ」

 

 星美がそうっと告げる。

 真名は生唾を呑み込む。

 

「すると」

 

 光紀が、眼鏡の奥から鋭い眼光を投げかける。

 

「その『妖蛆の秘密』なる魔術書を使って、あの『星の精』とやらを呼び出した何者かは、生きているのかわからない、ということですね?」

 

「あれこれ凄い召喚術が記されている書物だもの。試し過ぎて呼び出した相手に食われたり、あるいは魔法にのめり込みすぎて、人間の範疇を超えた何かになってしまったり。まあ、ご覧の通りの場所にいるんだから……ということね」

 

可能性の問題よ、と廃墟を指す星美の口調は、あくまで少女のように無邪気に響く。

 

「じゃあ、オリエンテーリングはここまでね。行きましょう」

 

 いつの間にか、星美の手から日傘が消え。

 彼女は、先頭に立って、廃墟の敷地に踏み込んだのだった。