2 獣医師の見たもの

 悲鳴が上がる。

 

 八十川善巳(やそがわよしみ)は、動物公園付き獣医師の黄緑色の作業着を着たまま、まっすぐシカの放牧スペースへと疾走する。

 すでに夏の熱気が迫る時間帯。

 都会のぼやけた青空でも、夏特有の青の強さが見られる。

 園内の木立からは、アブラゼミの絞るような鳴き声が聞こえてくる。

 帽子は被っているものの、日差しはすでに生地を貫通して頭部全体に熱を届けようとしている。

 

 いた。

 

 逃げ惑う来園者を掻き分けるように、園中央の放牧スペースに近付くと、異変は明らかだ。

 

 放牧展示されている、大型のシカの放たれた広い牧草地。

 そこの中央近くに、横倒しとなって、首から血を流し、もがき苦しんでいるオスのシカがいる。

 問題は、だが、シカそのものではないように思える。

 

「なんだこれ……」

 

 自分の声にかつてないほどの震えを、善巳は聞き取る。

 

 シカの上に、目にははっきりとは見えない「何か」が、覆いかぶさっているのだ。

 奇妙な見え方だ。

 一瞬、善巳は、自分が早くも熱中症でおかしくなっているのかと疑う。

 しかし、周囲の客の好奇心剥き出しの様子からしても、明かにそれは善巳にだけ見える錯覚ではない。

 

 まるで、何か固体の動物の肉体がある、というよりは、空間が半透明のゲル状となり、それがねじくれて蠢いているような、奇怪な見た目である。

 あまりにあいまいな見え方で、全体像はよく見えない。

 しかし、幼児くらいのずんぐりした胴体から、腕なのか肢なのか触手なのか、よくわからない長い器官が幾筋も伸びていることは、辛うじて判断できる。

 それがシカの体に幾重にも巻き付き、そのうち一本が長い首に突き立てられて、血を撒き散らしながらそのまま吸い上げているよう。

 

 周囲はパニックになる者、係員の指示で離れる者、好奇心剥き出しの目でスマホを構えて撮影する者など、混乱の極みにある。

 善巳は、手当たり次第の客に、危ないので離れてくださいと叫びつつ、放牧場の柵に近寄る。

 すでにシカは絶命したようだ。

 長い首が、ちぎれかけてぐらぐらと地面に伸びている。

 にもかかわらず、出血自体が多くないのは。

 

「くそ、なんだこいつ!! 駄目だ、何かわからないが、警察を呼んで麻酔銃を使ってもらわないと……!!」

 

 職員だけで、シカやサルにするように大きな網をかぶせて押さえる、などというのは、いくら何でも非現実的だ。

 こいつはかなり危険で獰猛な性質の生き物だ。

 一体、何なのかは全く知識にないが、丸腰の人間が近づいていい生き物ではなさそうである。

 

『あら。こんなところにも。相変わらず、適応が早くておいたが得意だこと』

 

 甘く優雅な女の声音に、善巳はふと、悪夢から覚める心地。

 

 振り返れば、美しくもあるが、それ以上に奇妙な人影。

 

 頭から華麗なレースのヴェールを被り、纏うのは、白地に蝶の、絹地の着物。

 日傘代わりにか、和傘をさしている。

 着物の上からでもうかがえる見事な曲線は、女のもの。

 

『そこのあなた。いるべきところに還りなさい。まあ、無理やり還ってもらうことにしないと、あなたはわからないかしらね?』

 

 女が、ヴェールを剥ぎ取る。

 

 真珠母色の、優雅な巻き毛に縁どられた、まばゆいばかりの甘美な美貌が露わとなる。

 仰ぎ見る満天の星空のようなはるかな蠱惑を持つ美しさ。

 

 同時に、あの生き物が身じろぎし、こちらに注意を向けたのが、まるで肩でも叩かれたかのように、善巳には感知できる。

 

「あぶな……」

 

 言いかけた、その時。

 

 女の背中から、ガラスの彫刻のような、真白く輝く、蝶の翅が広がる。

 女の白い額からは、虹色の丸い触覚。

 伸ばした手指の先から、同じく虹色に輝く無数の輝閃がゆらゆらある種の奇怪な規則性を持ってゆらめく。

 

『さよならね』

 

 女が言うのと、その見えざる生き物が柵を飛び越えたのは同時だ。

 

 虹色の輝閃が、大小の波のようにうねりながら怪物を絡め取る。

 次の瞬間、何やら異様な匂いを放つ「何か」が、寸断されてぼたぼたと、空中から投げ出されたのだった。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

「どうも。警視庁の岩淵と言います」

 

 遅ればせながら、呼ばれた警察官たちの中に、その刑事は混じっていたのだ。

 

 動物公園のバックヤード、応接間。

 あの正体不明の動物の最期を確認したというので、善巳がその刑事の尋問に応えることとなる。

 応接間のソファセットに向き合い、善巳はその刑事を迎える。

 

 一見、デスクワークが得意なインドアタイプだ。

 色白で、仕立てのいい夏物のスーツを着こなしている。

 デザイナーズブランドであろう粋な眼鏡が、整った顔立ちに映えて涼しく光る。

 

「まず、あなたは、どのような動物をご覧になったのですか?」

 

 眼鏡の奥で、黒々した瞳を光らせ、落ち着いた声音で、岩淵光紀(いわぶちこうき)と名乗った刑事は問いかける。

 

「どんな……とわかるように御伝えする自信がないのですが……」

 

“あれ”をどう伝えたものだろう。

 善巳の言葉はそんな風に自信なさげになるよりない。

 

「と、仰られますと?」

 

 刑事はゆるやかに促す。

 

「……なんというか、半透明な体と申しますか……。整髪料で、ゲル状のやつがあるでしょう? ああいうのをかき回したようにぐねっとした影にしか見えないような、変な生き物だったんです。どういう動物か、あれでは何とも……」

 

 獣医のくせに情ないという感慨もかすかにあるものの、あれをなるべく正確に伝えるなら、そう表現するしかない。

 

「形もおかしいというか……肢が何本かもわからないと申しますか。ごろっとした胴体に、なにか腕だか肢だか尻尾だかが何本も見えた……ような気がしたのですが、一体具体的にどんな繋がりなのかも識別できないくらいにぼんやりしてたっていうか」

 

「ふうむ」

 

 刑事はうなり、素早くメモを取る。

 

「そいつは、何をしていたように見えました?」

 

「シカを、放牧場で襲ったんです。どこから入り込んだのか……。私が近づいてすぐ、襲われていたシカは死んでしまいました」

 

 なるべく冷静に状況をつたえようにも、思い出すだけで冷たい恐怖が背骨を駆け上がる。

 

「あなたも襲われましたか?」

 

「ええ、危かったのですが、たまたま近くにいた、お客さんに助けてもらって」

 

 そうだ、あの女性のことを……。

 

「どんなお客さんです? 凄いですね、そんな化け物みたいな生き物から、誰かを助けられるなんて」

 

 刑事の、岩淵光紀の目が三度底光りしたように思えるのは気のせいか。

 

「蝶なんです」

 

「はい?」

 

「蝶の翅が、背中から生えていました。触覚もあって。虹色の糸みたいなものを指先から。それに触れたら、おかしな生き物がバラバラに……」

 

 善巳が、無意識に右ほおの古傷に触れる。

 刑事は、岩淵光紀は、ただ凝然と、目の前の善巳を見詰めていた。