「危ない!! 下がって!!」
その無防備に立ち尽くしているかに見える人影に向かって、光紀が鋭く警告する。
白っぽいタイルが日差しを反射する、大きな博物館の前庭。
博物館の屋根の上には、見るだにおぞましい漆黒の怪物が、翼を広げ、背中の触手をうねらせている。
「そこから離れて!! なるべく遠くへ」
「そんな必要ないと思いますよぉ。だって、あいつは僕の昔馴染みですからねぇ」
変に暢気な間延びした声で、その人影が応じる。
振り返った風貌を見れば、なかなか整った目鼻を持つ、まだ若いように見える男性である。
ぱっと見、近隣の若手神職が公園に紛れ込んだという風情。
だが、何か。
背筋がざわざわするのはどういう訳か。
別段嫌悪感を抱く理由などない、こざっぱりした男性なのに。
「あら、困ったちゃんじゃないの。今はそういう姿なのね」
不意に、星美がそんなことを言い出す。
真名はじめ、光紀も善巳も振り返る。
「困ったちゃん……というと……」
「……ニャラルトホテプ……邪神……?」
真名、善巳が息を呑む。
光紀が咄嗟に脇のホルスターから拳銃を取り出し、その青年にポイントする。
「動くな!! 動くと撃つぞ!!」
鋭く警告を発し、光紀は真名に呼びかける。
「宇津木さん。こいつは私が押さえていますから、『送還』をすぐに。ここでセトに暴れられてはまずい」
途端に聞こえたように、セトが奇怪な吼え声を轟かせる。
何とも名状しがたい、高いとも低いとも表現できない、神経を錯乱させるような咆哮である。
耳にするだけで、ごっそり精神が抉られるような。
「セト……!!」
真名が、「妖蛆の秘密」を片手に進み出る。
と、彼女にちらと視線を送ったニャラルトホテプが、不意に笑い声を響かせる。
「いいんですかぁ? このおっかない人の言うがままに、セトなんかの飼い主になっても」
はたと、真名の動きが止まる。
光紀は動じていないように見えるが、善巳は虚を突かれたように、星美とニャラルトホテプを交互に見やる。
「このヨグ=ソトースのところの跳ねっ返り娘さん、数いるあの人の子供の中でも、一番たちが悪いんですよぉ。僕を困ったちゃんなんて呼びますが、僕に言わせれば自分のことを棚に上げてよく言うよ、です」
「あらあら、今度はそういうやり方で、人間ちゃんたちをからかうことにしたのね? 今取り込んでるから、後にしてちょうだい」
星美はめんどくさそうにそう言い捨て、真名の傍に歩み寄ろうと……
「この人がいたら危ないので、僕が連れて行きますね。送還は頑張ってください」
笑いを含んだ声で、いきなりニャラルトホテプは、星美に掴みかかる。
光紀の指が引き金にかかり……
「行け!!」
鋭く響いたのは、真名の声。
あの半ば見えない影が、恐らく十数匹、弾丸の勢いでニャラルトホテプに殺到する。
声もない。
「星の精」に食らいつかれたニャラルトホテプの姿が見えなくなる。
正確には、あの神職の装束だけを残して、体が消え去っていたのだ。
星の精が食いついたのは、その抜け殻の衣装だけ。
どこからか笑い声が響いた、気がする。
「え……あれ……消え……!?」
善巳が唖然とする。
光紀は星美を巻き込むことを恐れて銃撃できずにいた銃を下ろす。
「宇津木さん、今のうちにセトを!!」
光紀が声を上げるまでもない。
「セト……!!」
星の精を一瞬で送還した真名は、今度は博物館の屋根のセトに向き直る。
「妖蛆の秘密」を手に、朗々と奇怪な呪文を唱える。
え いあ あいあ ずろう
まし へじ まざし べい
あ いあ せと うぎく
いた むんない ぜー
どういう意味かは、星美以外には聞き取れぬ、それはセト送還の呪文である。
日差しが、一気に明るくなった気がする。
光紀、善巳、そして星美が顔を上げると、博物館の淡い色の屋根の上には、すでに漆黒の怪物はいなくなっていたのだ。
◇ ◆ ◇
「宇津木さん、八十川さん、相馬先生。後日、恐らく警視庁で改めて事情をお訊きしますので。準備をしておいてください」
今更ながら、自分の血と、星の精の血で凄いことになっている光紀が、救急車のストレッチャーに連れていかれている。
真名も善巳も心配そうに彼を見送る。
周囲にはようやく通報でかけつけた警察車両が何台も。
それに混じって、救急車。
思われていたよりも怪我が深手だった光紀は、病院に搬送されることになってしまったのだ。
「では、T総合病院に」
「はい」
そんな声と共に、光紀を乗せたストレッチャーが、救急車に運び込まれる。
それを見送って、真名たちに向き直った人影が一つ。
「ふむ。なるほど。こちらのヴェールの女性……相馬星美さんが誘って、H市郊外の廃墟に魔術書を取りに行った、その際、うちの刑事の岩淵も同行した、と。そういうことですね」
男くさい感じのがっちりした刑事が、手帳片手に、真名、善巳、星美から大まかな事情を聞き取っている。
「はい」
真名は「妖蛆の秘密」片手に、静かに肯定する。
すぐ隣に、善巳と星美。
星美は上機嫌な様子で、善巳は走り去る救急車を気にしている。
「ここの博物館の屋根にいた生き物は……」
「私が『送還』しました」
真名は、きっぱり応じる。
「私、魔女なので」
クトゥルフ神話 「魔女のはじまり」【完】