13 彼の地

「う……あっ!?」

 

 言葉にならない言葉と共に、善巳は飛び起きる。

 ざりざりして暖かい石の感触。

 埃っぽい匂いが鼻をくすぐる。

 遠くに陽だまりが目に入る。

 

「え……?」

 

 善巳は思わず右手を付いて石の床の上に起き上がる。

 見たこともない場所だ。

 あの三人と挑んだ廃墟とは似ても似つかない。

 何より、妙に明るい。

 どうも、自分が横たえられていたのが、石造りの建物らしきものの屋根の下の床であるので、どうにか干上がらずに済んでいたようだ。

 少し離れた明るい場所に目を向けると、視界が白飛びしそうな強烈な太陽光線で照らされているのが目に入る。

 

 参拝したことのある神社の参道の、優に数倍はありそうな、巨大な石畳の参道が伸びているのが遠くに見える。

 参道は途中で折れ曲がり、そのお陰で、参道脇に設置されている、大きな獣型の石像の並びまで目に入る。

 

「ス、スフィンクス……?」

 

 善巳は呆然と呟く。

 それは確かに、人文科学の番組などで目にする、あの石造りの半人半獣の像。

 スフィンクスだったのだ。

 しかし、何か違和感がある……

 

 善巳はふらふら立ち上がり、足に力を込めてその参道が良く見える場所まで進む。

 周囲には何かが刻まれた石柱が森のように林立して天井を支えている。

 

「え……」

 

 なんだこれ、と善巳は息を呑む。

 しげしげ観察したスフィンクスの、違和感の原因が判明する。

 顔が、ない。

 頭をあのエジプトのファラオの覆い布で覆った人獣の像なのだが、ちょうど人間の男性の顔があるべき部分が、すっぽりえぐれて何もない。

 そこには強烈な太陽によって落とされた真っ黒な影がわだかまる。

 

「ここ……なんだよ……」

 

 自分の声が震えているのを自覚しつつ、善巳は周囲を見回す。

 何かが彫り込まれた巨大な石柱。

 

「……ヒエログリフ……えっ……」

 

 善巳は息を呑む。

 そこに刻まれている、奇妙な絵のような文字も見覚えがあるものだ。

 ヒエログリフ、古代エジプトの神聖文字である。

 カルトゥーシュで囲まれた人名、恐らく祈祷文か何かなのであろう、祭具やハヤブサを象った文字の並び。

 

 それより目につくのは、そのパピルスの形をした柱に刻まれた異様な「何者か」である。

 

 トカゲにも、人にも似ていて、翼がある。

 黒く塗りつぶされたような彩色が施され、嘲笑するような獣の頭から舌が突き出す。

 八本ある手足の先端は、昆虫のようにも刃物のようにも見える。

 背中から頭部、尻尾にかけても、黒い炎のような触手が揺れている様が表現されている。

 その生理的な忌避感を強く感じさせる姿は、見回せば周囲のどの石柱にも刻まれている。

 少しずつ姿勢の違う黒い正体不明の怪物が、善巳に向けて食らいつくす欲求を示すように口を開けている。

 

「あ……岩淵さ……宇津木さん……」

 

 何で自分がこんなところにいるのか、全く覚えていない。

 廃墟に挑んだ仲間たちは一緒ではないようだ。

 なんで自分がエジプトの遺跡に転がっていたのだろう?

 まずい。

 どこの遺跡なのだ。

 エジプトの日本領事館はカイロにあるはずではなかったか。

 そこまで辿り着かないと……

 

 ふと。

 

 何か、笛の音のようなものが聞こえる。

 

 善巳は思わず周囲を見回す。

 次第に笛の音が大きくなってくるように思える。

 それも複数の音色が重なって聞こえるような。

 

「なんだこれ、フルート……?」

 

 物好きが遺跡でフルート演奏としゃれこんでいるのだろうか。

 エジプトや、エジプトを訪問する観光客の間でそういう流行りでもあるのか。

 

 誰かいるのか……?

 

 そう思った矢先。

 善巳は悲鳴を上げる破目となる。

 

 足元近くに、何かがいる。

 

 善巳はまじまじと目を見開く。

 

「それ」は、ぐにゃぐにゃした不定形の「何か」である。

 奇妙なことに、どこに口があるのかもわからない見た目なのに、明らかにつやつや光るフルートのような楽器を携えていることだ。

 どうも聞こえてくるあの笛の音は、こいつらが奏でているらしい。

 そうだ、複数だ。

 目の前に一体、斜め前に一体、横に一体。

 どんどん増えていく。

 都合五体くらいはいるだろう。

 

 かぼそいフルートの音色はどんどん高まる。

 まるで善巳を追い立てるように、そいつらはじりじりと善巳に近づく。

 

「あ……あ……岩淵さん!? 宇津木さん!? 相馬先生!?」

 

 善巳は叫びながら地面を蹴る。

 逃げる、逃げる。

 そうだ、自分がこんなところに送られたなら、彼らもここに来ているのではないか。

 特に星美は、こんな奴らを追い払ってくれるのではないか。

「星の精」をそうした時のように。

 

「先生!! 相馬先生!! どこッスか!!」

 

 善巳は、追われるまま、巨大建造物の奥へと進む。

 そうだ、彼らはここにいるのではないか?

 周囲の石柱ではあの化け物が口を開けて嗤っているが、善巳はすでにそれどころではない。

 埃っぽい薄明るい空間を走り、遠くの明るい場所へ……

 

 ふと。

 目の前の空間に誰かいるのが、善巳の目に入る。

 星美ではない。

 光紀でも、真名でもない。

 見知らぬ男たち。

 

 彼らの肌は浅黒く、頭を剃り上げていて、腰布状の衣服と、体に豹のものらしい毛皮を巻き付けている。

 そんな男たちが十数人、屋根の途切れた直射日光の射すまばゆい空間で、頭上に手を差し上げ、何かひたすらに叫んでいる。

 言葉は判別できない――というか、違和感がありすぎて人間の言葉なのだろうか疑問である――が、何か祈祷じみたものだというのだけは、何となくわかる。

 一言で言えば呪文だ。

 

 フルートを吹いていた怪物が、その男たちの周囲を取り囲み、呪文に合わせてフルートを演奏し始める。

 

 風が顔を打ち付ける。

 

 善巳は見たのだ。

 ラピスラズリの蒼天から、ゆっくりと降りてくる、巨大な黒い翼を。