12 次元をさまよい歩くもの

「っわあああああ!?」

 

「えっ、ひっ、やぁっ!?」

 

「落ち着いてください、生き物ではありません!!」

 

 悲鳴を上げて逃げ出そうとした善巳と真名を、光紀が制止する。

 二人は転びかけてようやく踏みとどまったように態勢を立て直す。

 

「それ」は、薄暗い部屋の中で、妙に存在感を放っている。

 恐らく等身大かそれに近い。

 だからこそ、善巳も真名も見誤ったのだ。

 

「それ」は、案の定というべきか、地球の生き物に見えないおぞましい外見を見せている。

 全体的には類人猿に似ているだろうか。

 黒っぽいつやつやした石材のようなもので作られたその像は、部屋の中央にあって闇を吸い込んでいるかのようだ。

 だが、単なる類人猿の像に見えない理由は、顔面が甲殻に覆われた昆虫のそれになっており、更に手足の先端はぎざぎざの昆虫のそれが接合しているように見えることだ。

 あり得ない生き物であり、どうしようもなく吐き気を催す違和感。

 

「な、何なんですかこれ……何の像!?」

 

 真名は上ずった声で、抗議でもするように叫ぶ。

 と、彼女の目の前をすいっと横切り、星美がその奇怪極まりない像に近づく。

 

「これね、魔術師の間では『次元をさまよい歩くもの(ディメンショナル・シャンブラー)』って呼ばれているわ。私はおサルさんって呼んでいるけど」

 

 何てこともなさそうに説明されて、真名は善巳、光紀と顔を見合わせる。

 光紀は相変わらず銃を掲げたまま、ゆっくり説明を引き継ぐ。

 

「いわゆるクリーチャー、奴らに属する化け物ですよ。系統に関わらず、魔術師たちに使役される下等な生き物です。基本的にそう複雑なことはできないはずなんですが、普通の人間にとっては十分脅威ですね。たまに『連れ去り』をすることもありますし」

 

 真名は目をぱちくりさせる。

 

「つ、連れ去りですか……!?」

 

 こんなモノが人間を連れ去る?

 まさか食べるためにだろうか?

 光紀は眼鏡の奥ですうっと目を細める。

 

「『次元をさまよい歩くもの』って名前ですよ。これはその行動通りの名前なんです。奴らは、時々人間を他の次元に連れ去ってしまうことがあるんです。連れ去られたら、まあ、まず元の世界には帰って来られませんね」

 

 ひぇっ、と息を呑んだのは善巳である。

 

「他の次元!? 他の次元って何ッスか!? 流石に大げさッスよね!?」

 

 光紀は重い溜息をつく。

 

「残念なことに全くの事実ですよ。連れ去られる先の『次元』が具体的にどんなものかは確認しようもありませんが、『次元をさまよい歩くもの』が、文字通り次元の狭間で生きている生き物だということは判明しています」

 

 善巳が、きょろきょろ周囲を見回しだす。

 改めて見るに、かつては心安らぐ設えだったのであろう、広い居間である。

 ぼろぼろのじゅうたんも、暖炉型のヒーターも、埃を被ったテーブルもソファも、往年の美しさを思い起こさせる。

 それらの前に立ちふさがるように、その「次元をさまよい歩くもの」の石像が、しっかり台座に据えられてこちらに光る複眼を向けているのだ。

 それなりに人間的な生活を想起させるその部屋にあって、その像だけが異質な気配を発散し、往年の安息の気配を台無しにしているのだ。

 

「あ、でも、あのおかしな星マークがあれば、奴らは入って来られないんッスよね!?」

 

 善巳がぽんと手を打つ。

 

「あ、そうだそうだ、ビックリしたッスよ!! 大丈夫ッス、たった今、宇津木さんに対策してもらったところじゃないッスか!!」

 

 はああああと盛大に安堵の溜息をつき、善巳は腕を頭上に差し上げる。

 真名は今しがたのショックで吹っ飛ばされた、すべきことがようやく頭の中に戻ってくるのを感じる。

 魔術師の日記なり書付なりを探さないといけないのだ。

 何故、この家にかつて住んでいた魔術師は、星の精を死後までも呼び出しているのか?

 

「居間……何か書きつけたものなんかはありそうですよね。ちょっと探します?」

 

 真名は、ぐるりと部屋を見回す。

 さほど大きくないものの、書棚らしきものが目に入る。

 

「そうですね。何かしら見つけられたら。……電話がありますね、この部屋にも。この魔術師の元に誰が電話をかけて来たのか」

 

 アドレス帳のようなもの、それなりの年配の人間だったらまだ使っていそうですね。

 光紀は、相変わらずレトロなオルゴールみたいな電話機に目を留める。

 電話台は暗褐色で大理石の天板の渡された高級そうなもので、何やらメモらしきものが電話機の横に置かれている。

 光紀は一度周囲を見回すと、静かに銃をホルスターに収める。

 

「……向こうの収納棚、何かあるかも知れないッスね。俺、あっち探します」

 

 三人は顔を見合わせてうなずき合い――そして、四人目、星美にぞろりと目を向ける。

 

「……先生。なんならあの幽霊を呼び出して締め上げてもらえませんか?」

 

 言葉は依頼の形だが、妙に横柄な調子で、光紀が星美に言い渡す。

 

「あら、そんなことする必要ないわよ。……電話台の上のメモ、使いかけね。何が書いてあるのかしらね? 目の付け所いいわよ、流石刑事さん」

 

 星美にくすくす笑われ、光紀は怪訝そうな顔を一瞬だけ見せたが、すぐに切り替えて、電話台に歩み寄る。

 真名は書棚、善巳は低めの収納棚に、それぞれ足を向ける。

 

「これは……?」

 

 光紀は、魔術で強化された視界の中で、そのすっかり黄ばんだ電話用のメモに目を走らせる。

 薄い金属製の下敷きの上に分厚いメモ用紙がリングで束ねられており、上部には、誰かの名前と電話番号。

 

「奥脇孝三郎(おくわきこうざぶろう)……これがあの魔術師の名前か。電話番号は、ここの電話番号……か」

 

 光紀は、メモを開かれていた部分から遡るように、一枚ずつ調べていく。

 

「教団……? いけにえ……? ノルマ……? 何のことだ……?」

 

 光紀の眼鏡の奥の目がみるみる曇る。

 およそ電話用のメモに書きつけるとは思えない不穏な言葉が頻出する。

 

「あら、やっぱり見つけたわね? 色々妙なことが書いてるでしょう? 誰かと取引していたんじゃないかしらね、この人?」

 

 背後から、星美が覗き込んで来る。

 ふわりと、まさにアゲハチョウを思わせる柑橘類系の良い香りがするのだが、光紀にとってはむしろ背筋を凍らせるばかり。

 

「何かご存知なのですか? 相馬先生、でしたら……」

 

 目に力を込めて睨みつける光紀がそう口にした時。

 

「ひっ……わぁああぁ……ッ」

 

 短い悲鳴が轟く。

 若い男性のもの。

 

「八十川さん!!」

 

 光紀がぎょっとしたように床を蹴って収納棚の前に駆けつける。

 

「そんな……八十川さん……!!」

 

 蒼白となった、光紀の目の前。

 収納棚の目の前に、善巳のバッグが転がっていたのだった。