「ああ、思い出したわ。可愛い人が駐車場で襲われてたわね。ちょうど、去年の今頃。あなただったのね、よく見つけて下さったこと」
くすくすと、白いヴェールの奥から軽やかな笑い声。
真名は思わず身を乗り出す。
「……あの時、助けて下さったのは、本当に相馬先生だったんですね? 教えてください。あれって、何なんですか?」
息をつめて答えを待つ真名に、白いヴェールの不可思議な占い師は、軽く首をかしげて問いかける。
「それが知りたいこと? あなたは、当時、新聞記者さんでいらっしゃったんでしょう? 記事にはどういうことだという結論でお書きになったのかしら?」
そのことも踏まえないと、答えもお伝えしづらいの、と重ねると、真名は軽く吐息を吐き出して、きっぱり言葉を吐き出す。
「……記事は、書きませんでした」
「あら」
「いえ、正確に申し上げると、書いたのですが、デスクに握りつぶされたんです。証拠の動画も残っていたのですが、コピーして提出したものを消されて……私が保存していた元データも消すよう言われました」
思い詰めた様子で言葉を切る真名に、ヴェールの女、相馬星美は同情のため息を投げる。
「念入りなことね、あなたの上司さん、というか、あなたのお勤めの新聞社さんは。そういう意味で、”社会の公器”の自覚は十分だわね」
「……そういうことがあって、私は新聞社を退職しました。今は、フリーのライターです」
真名は、きっぱり断言して、くいっと顔を上げる。
「ただの外来種生物なんかじゃないんですね、あのおかしな血を吸う生き物。動画を見た、上司の反応がおかしかったですもの。教えてください、先生。ご存知なんじゃないですか? あれは一体……」
「確かに、行き届いた対応とは言い難いけど、あなたの元上司さんの対応も、仕方ないところがあるのよ」
静かな、すっと心が落ち着く声音で、星美が言葉を綴る。
「あれは麻酔銃とか大きな網とか毒餌とかで、何とかなるような存在ではないの。私のような対処法を弁えた者にはやりようもあるけれど、一般人は無理ね。迂闊に近寄れば、その可哀想な猫ちゃんと同じ運命を辿るだけ」
耳に染み込む、事実を述べる星美の口調に、真名はじんわりと冷たい汗を背中に感じる。
この言い回し、自分の記憶違いでも錯覚でもないということ。
やはり、この人は何かを知っている。
「でも……でも、あの生き物。先生がやっつけてくださったあれだけじゃ、ないんでしょう? まだ、いるんですよね?」
思わず、声が跳ね上がる。
真名はまさに詰め寄るように身を乗り出す。
「あら、どうしてそう思うの?」
星美が冗談めかすが、その奥の慎重な響きを、真名は聞き逃さない。
「……まだ、噂を聞くからです。知人の一人が、遭遇したと」
ヴェールで覆われてうかがえない星美の表情を、まるで視線の力で読み取ろうとするように、真名は真正面からレースに覆われた端正な起伏を見据える。
「……それに、先生は、あの時……ヴェールを取られましたよね。背中から……蝶の翅が……何か、キラキラ光るもの……が……」
真名はにわかに鮮明になった記憶に震える。
そうだ、どうして忘れていられたのだろう?
目の前のこの女が、ヴェールを取った。
あまりに美しい風貌に金縛りになりそうな思い。
真珠母色に輝く巻き毛が、ゆるやかに広がり。
そして、彼女の背中から広がった、ガラスの彫刻のような、華麗な紋様の浮かび上がる、蝶の翅。
彼女が真っ白な手を優雅に打ち振ると、視界の中を、まるで雨の後の蜘蛛の糸みたいな光の筋が無数に通り過ぎ。
その後には、もう、あの不気味な影の獣は、どこにも……。
「思い出してしまったのなら、仕方ないわ。実際、そうなんでしょう。運命は、あなたの手にゆだねられている」
不意に、星美が言い聞かせる口調で告げる。
真名がはっと顔を上げ、あの忘れ難い美貌があるはずの、レースを覗き込む。
「実際、ものの例えではなく、そうなの。この件の運命の鍵は、宇津木真名さん、あなたが握っているわ。私は、占いなんか、するまでもないの」
謎めいたその言葉に、真名は混乱したように首を振る。
「先生、どういうことなんですか? あなたは……」
「私は、あなたが見たように、人間の理(ことわり)のちょっと外に存在する者だけど。あなたは、それに似たような理に呼ばれてもいるの。だから、ここまで関わることになったのだわ」
ようやく見届けたと言いたげに、星美はうなずく。
「よく、考えて決めなさい。あなたが、これ以上、この世界に関わるというのなら、私が手伝ってあげられるかも知れないの、でも、それは危険も伴う。そして、あなた以外の人も、巻き込まれようとしているのね」
どういうことだろう?
この人は結局何者で、何が言いたいのだろう?
真名は、まだ口を開こうとし。
「これを渡しておくわ。何かあったら、ここに連絡をちょうだい」
目の前に、差し出されたのは、名刺、であろう。
半分を蝶の薄い紋様が占めていて、「占い師 相馬星美」という名前と、連絡先――携帯電話らしき番号が記されている。
何か、真名は口にしようとしたが。
◇ ◆ ◇
「あ、あれ……?」
真名ははたと気付く。
そこは、もう、あの占いの館ではない。
見覚えがあるような気もする、明るく広く、柔らかな色彩がそこここに見える空間。
恐らく、隣接した商業施設の、フードコートの一角ではなかろうか。
平日のせいで、そんなに混んでいない。
フェニックスの鉢植えの影の席で、真名は一人、コーヒーフロートと小さめのパンケーキを前に、ぼうっと席にいる。
一体、自分はどうしたんだろう、と真名はにわかに混乱に襲われる。
相馬星美に名刺を手渡された後の記憶が、すっぽりない。
自分は、どうやってこのフードコートに来たのだっけか。
咄嗟に、名刺ケースをまさぐる。
そこには、きっちり、しまった記憶もない、あの相馬星美の名刺が、端然と収まっていたのだった。