2 黄の印

「ああ……父さん、急にごめん。今大丈夫か?」

 

 あの光紀が、砕けた口調で話すのが珍しい、そこは、ドライブインの駐車場である。

 その広い一角に車を停め、運転していた光紀は、数km先の自宅にいるはずの、父親の携帯に電話をかけたのだ。

 平日午前中だけあって、駐車場は空いている。

 穏やかな夏の終わりの日差しの中に、立ち寄ったのであろう長距離トラックが二台ほど、ぽつぽつと乗用車。

 

 この電話のきっかけを作った星美が、後部座席で悠然と。

 真名は固唾を呑むように。

 善巳は、光紀に視線を当てて心配そうだ。

 

『何だ、光紀。何かあったか? そろそろ東京を出たくらいだろ? 何か起こったんじゃないのか?』

 

 光紀の父親の声が、光紀のスマホから聞こえる。

 これがスピーカーだったら、光紀と似た響きの深い声だということが、三人にもわかったであろうが。

 光紀は、一瞬だけちらっと後部座席の星美を睨む。

 

「あのさ……実はもう、市内に着いてるんだ」

 

『何だって!?』

 

 頓狂な声が聞こえる。

 

「前に電話で話した人がいるだろ。ちょっと……半分人間でないような人に協力しててもらってさ。その人のお陰で、早く着いたんだ。ちょっと、気になることがあって」

 

『何だ、どういうことなんだ? 話が』

 

 光紀の父親は困惑しきりのようだ。

 

「なあ、父さん」

 

 光紀は、思い切ったように口を開く。

 

「この前盗まれた蔵にあった家宝とは別に……うちの床下に、何か埋まっていなかったか?」

 

 沈黙。

 たっぷり続く。

 光紀が怪訝な顔を見せるほどに。

 

『……思い出したのか?』

 

「思い出したって? 何のことなんだ? これ、その協力者の人に教えてもらったことなんだけど、本当なのか!?」

 

 光紀は、思いがけない展開にぎょっとしている。

 星美はくすくす笑い、「ほらね」と口にする。

 真名は光紀と星美の間で視線を巡らせる。

 善巳は小さな声で「マジッスか」と呻く。

 

『わかった。この話、電話では何だから、とにかくすぐ家に来い。その協力者の人も一緒なんだな?』

 

「ああ。お昼は、その協力者の……相馬先生が用意してくれているから、気にしなくていいから。じゃ、すぐ向かうな」

 

 光紀は電話を切る。

 

「……やはり、床下に何か埋まっていたのは確かなようです。思い出したのかとか何とか、父には言われましたが、何のことなのか……相馬先生」

 

 光紀はじろりと星美を睨む。

 星美はくすくす更に笑うばかり。

 

「ちゃんとお父さんに伺ったほうがいいわよ。お父さんがあなたに降りかかったかも知れない災難を遠ざけて、こっそり床下に埋めて、家族にも口止めをしたの。そういう家族の間のことなら、私なんかに訊くんじゃなくて、ご両親とちゃんとお話なさった方がいいんじゃないかしらね?」

 

 ああ、妹さんは、小さかったのもあってわかっていなかったから、責めるのは気の毒よ?

 星美はそんな風に付け足して更にくすくす笑い。

 

 光紀は、じっと星美を見据え、決意したように顔の向きを戻して、車のエンジンをふかす。

 

「……すみません。八十川さん、宇津木さん。何か例の事件以外に、厄介なことが我が家であったようです。急ですが、これからすぐ実家に向かいます」

 

 言われて、真名はうなずく。

 

「思い出した……ということは、何かを忘れてた……ですか。岩淵さんがってことなんでしょうか? 気になりますね……」

 

 このしっかりした、しかも業務上の付き合いの上で、記憶力も人並み以上だということもわかっている、極めて優秀な刑事の光紀が「忘れていた重要なこと」。

 聞かされた地元と、実家の事情も相まって、あれこれ考えずにはいられない真名である。

 しかし、今の時点では全て推測の域を出ない。

 

 善巳が何か思い出すように首を振る。

 

「……もしかして、岩淵さんも何か、俺が子供の頃出くわしたみたいなのに会ってるんスかね……。人間、ああいうのに出くわしたら、もしかして怖すぎて忘れちゃうんじゃないスかね……」

 

 光紀が、後部座席と助手席をちらと見やる。

 

「ご説明できたらいいんですが……全く覚えていないんです。高校を卒業するまで平穏無事に実家で過ごしたことしか思い出せない。とにかく、すぐ向かいます。古くてむさくるしい家ですが」

 

 光紀はエンジンをふかし、滑らかな運転で車を駐車場から出す。

 国道を少しだけ西へ進んで、一般道を北へ。

 閑静な住宅街を明らかに土地勘のある者の運転で進み、裏に林を抱えた、大きな屋敷が見えてくる。

 

「うわ、御殿みたいッスね」

 

 善巳が言う通り、豪壮な造りの邸宅が目の前に。

 古びているが、敷地は確かに武家屋敷並みである。

 漆喰の塀に囲まれて、二階建ての母屋と、離れらしき少し小さな建物、そして恐らく犯罪の舞台になった、古い蔵が見える。

 いかにも地方の旧家といった門構え。

 

「まあ、古くて多少リフォームしても薄暗い家なんですが」

 

 そんなことを言いながら、光紀は、塀の一角に設えられたガレージに車を滑り込ませる。

 

「古いものは好きよ」

 

 星美が、そんなことを不意に口にする。

 光紀が、トランクを開けて、彼女の白いスーツケースを取り出す。

 

「そうですね、あなたなら落ち着くでしょうね」

 

 珍しく揶揄抜きで、光紀が相槌を打つ。

 

「時間の流れ、濁流ともなればあっぷあっぷしている、ついでにいつの間にか流されてる人間ちゃんたちは可愛いわ、ウフフ……」

 

 星美の言葉に、思わず目をぱちくりさせる真名と、他人事だと思ってます!? と抗議する善巳。

 光紀は、うんざりしたようにじろりと星美を睨む。

 

「……少しでも、昔を懐かしんでおられるのだと思った私が馬鹿でした」

 

「そんなことないわよ。懐かしいとは思っているわ。刑事さんのこちらのご実家、私が生まれた家にちょっと似ているわね、ウフフ……」

 

 全員の荷物をトランクから取り出し――星美は先ほどのスーツケース、真名はクリームイエローの、善巳はスポーツブランドのボストンバッグ、光紀は黒のスーツケース――、光紀は先に立って、大きな門へと向かう。

 

「あ、光(こう)ちゃん!?」

 

 門に、ほっそりした女性が出て来る。

 門扉の前、石の板を張った地面に影が落ちる。

 

「皆様、遠路はるばるようこそおいで下さいました。光紀の母の、岩淵祥子(いわぶちしょうこ)と申します」

 

 その上品な女性は、50代くらいであろうか。

 色白で端正な顔立ちが、光紀と似た雰囲気を醸し出す。

 成熟した落ち着いた色気があり、その白百合のような風情で、若い頃はさぞ目を引いただろうと思わせる。

 

 真名も善巳も、いかにも深窓の奥様である彼女に、丁寧に頭を下げる。

 星美は、早い時間にごめんなさいね、と軽く一礼。

 

「ただいま。父さんに電話入れたんだけど……」

 

 何か聞いてる? と光紀が母親に尋ねると、彼女はふと目を曇らせる。

 

「……思い出した訳では、ないのね……?」

 

 光紀ははっとする。

 

「こちらの……相馬先生に伺ったことなんだ。うちの床下に、家宝とは別に何かが埋まっていて、早くそれを受け取った方がいいって……どういうことなんだ? 父さんは?」

 

 祥子はちらと背後を振り返る。

 背後、手入れの行き届いた庭に。

 奥には母屋の影。

 

「とにかく入って。お父さんは、今床下にしまったものを掘り出しているから」

 

 光紀がえ? と母屋に目をやると。

 

「光紀? 早いな」

 

 背の高い、均整の取れた体格の、壮年男性が近づいて来る。

 体つきや雰囲気から、光紀と血縁があると判別できる。

 この家の主であろうが、衣服が来客もあるというのに、農作業でもするような。

 

「皆さん、ようこそおいでくださいました。教えていただいて良かった。これを掘り出しておりまして、こんな格好ですみません」

 

 声が光紀と似た深い響きの声だ。

 来客として迎えられる各々と挨拶を交わし、光紀から「父の岩淵武光(いわぶちたけみつ)、現在の岩淵家当主になります」と紹介される。

 

 彼は、手にしていた木製の箱を、光紀の目の前に持って来る。

 

「光紀。これは覚えていないか?」

 

 怪訝な顔で、光紀は父親が掘り出していたものというそれを覗き込み。

 思わず息を呑んで後ずさりする。

 

「黄の印……!? 何なんだこれ!?」

 

 古い時代の煙草入れのような木製の箱。

 その表面には、シンボルとも文字ともつかない、両手を広げた怪物のように見える奇怪な紋様が描かれていたのだ。