「動くな!!」
光紀が「ハスターの銃」をその怪物にポイントする。
その怪物はざわざわ蠢く。
黒々とした表皮を持つ、古い巨木のような節くれだった胴体。
奇妙な繋がりの肢からは分厚い蹄が生えている。
ねじくれた巨大なロープのような触腕が、こちらを嘲弄するように揺らめく。
「言え。お前が、栽松隆也に憑いている者か!?」
光紀の口調はしっかりして一分の隙もなかったが、その顔は蒼白で、目に光がない。
明らかにその怪物を畏れているのだ。
よほど精神の強靭な者でも、その異様さと鬼気に魂にひびが入る。
怪物は、ますます面白がったのか、ざわざわと風に揺れる大木のように、触腕を揺する。
「ハスターの銃」は目に――どこにあるのやらわからないが――入っているのかいないのか。
『ハスターの申し子か。そしてヨグ=ソトースの娘に連れられているとはな。珍しい組み合わせだ』
一体どこから響いてくるのか、思慮深い男の声が、光紀の耳にも、星美の耳にも届く。
物理的な音というより、脳内でいきなり記憶がよみがえっているような、奇妙な聞こえ方。
「あら、お久しぶりね、仔山羊ちゃん。お母さまはお元気?」
星美が、まるで久しぶりに帰省した近所の子供に声をかける奥様みたいに、親し気に口にする。
仔山羊と呼ばれた怪物、シュブ=ニグラスの落とし仔「黒き仔山羊」は、触腕を蠢かせて応じる。
『あの方は生命そのものだ、「元気でない」ことなどあろうはずもない。何の用だ、ヨグ=ソトースのところの跳ね返り娘よ。ここにいるこの男がどうかしたのか』
周囲の葛の重なり合う茂みを掻きまわしながら、黒き仔山羊は、触腕の先端で栽松隆也を指し示す。
隆也は、まるで病気で長らく学校を休んでいた友人が、久しぶりに姿を見せたのを喜ぶ子供のような顔で、黒き仔山羊に手を伸ばしている。
あ、あ、というような、意味をなさない声。
「ちょうどよかったわ。この人、栽松隆也さん、ね。あなたのお母さまのご威光を外に伝道するために、元の職場に復帰させてあげたいのよ」
しれっと、星美はそんなことを伝える。
光紀は「ハスターの銃」を黒き仔山羊にポイントしたまま、じっと星美の交渉を見守る構えだ。
『そうやって銃を突きつけたまま、交渉しようというのか? ヨグ=ソトースの娘よ、仲間も制御する気がないと?』
「岩淵さん、気持ちはわかるけど、銃を下ろしてちょうだい」
星美が、白い繊細な手で、そっと光紀の銃を押さえる。
「こう警戒されていたら、上手くいく交渉も上手くいかないわ。とりあえずは任せて」
小声で耳元に囁かれ、光紀は一瞬だけ迷い、結局「ハスターの銃」を下ろす。
『ふむ、良かろう。伝道と言ったな、ヨグ=ソトースの娘よ』
黒き仔山羊が聞く態勢となる。
「そうよ。こちらの栽松隆也さんは、もうあなたのお母さまの信徒で、使い魔も見ての通り下し置かれているはずなのに、こうして病院に閉じ込められているわ」
『二、三百年ばかり前から、母の威光に触れた人間は、社会から隔離されるようだな』
黒き仔山羊は、悠然と蹄を打ち鳴らす。
光紀は恐怖が閾値を超えるかのように思われたが、うなじに星美の糸が触れるのを感じる。
その途端に物凄い勢いで沸騰していたような内心が、火を止めたように凪いで落ち着く。
嫌悪感が消える訳ではないが、抑えて、冷静にその光景を観察できる。
「それはもったいないわね。私が隆也さんを病人に見えないように処置して、ここから連れ出すわ。外で、もっとあなたのお母さまのご威光を世の中に見せつけることができるように訓練してあげる。それでいかが? あなた方親子にとっても、悪くはないでしょ?」
星美が条件を提示すると、黒き仔山羊は触腕を風に揺れる樹冠のように蠢かす。
考え込んだようだ。
しゅるり、と触腕が伸びる。
隆也がひょいと摘まみ上げられるのを見て、光紀が思わず銃を上げようとするが、星美が止める。
「大丈夫。彼に害意はないわ。見ていて」
星美が「ハスターの銃」を押さえ、光紀はどうにか自制する。
目の前で、隆也は黒き仔山羊の触腕に掴みあげられたまま、彼にほおずりするかのような。
正直、光紀には嫌悪を禁じ得ない。
『良かろう』
黒き仔山羊は、触腕で隆也をベッドに戻す。
周囲の妖魅たちは、隆也に集まって来る。
『この者を連れて行くがいい、ヨグ=ソトースの娘よ。ただし、我が母の御心から離れるようなことをすれば、その時は私がこの男を連れて行くぞ』
星美はうふふ、と穏やかに笑う。
「ありがとう仔山羊ちゃん。ちゃんとそうならないように訓練するのを約束するわ。お母さまにも、そうお伝えしてちょうだい」
『ヨグ=ソトースの名に懸けて誓え』
「ええ。我が父、副王ヨグ=ソトースの名に懸けて誓うわ」
星美が宣誓すると、黒き仔山羊は満足したようだ。
蹄を鳴らして身を翻し、巨大な葛の茂みの中に突っ込み、瞬時に見えなくなる。
この狭い病室を、植物を通じて異空間へ戻ったのだ。
「……!! 栽松!!」
光紀は、ぽかんとしている隆也に駆け寄る。
周囲の妖魅が散る。
隆也は、光紀に反応しない。
へらへら笑っているだけだ。
「栽松!! 栽松!!!」
「大丈夫よ、ちょっとどいていて」
星美が、光紀の背中をぽんぽんと優しく叩き、彼はぐいっと彼女に顔を近づける。
「栽松を戻してください、今すぐ!!」
「ええ、大丈夫」
星美の右手の指先から、光る糸が伸びる。
それが額とうなじに触れた瞬間、隆也の目に、劇的に光が戻る。
「う……えっ!? あ、あ……なんだここ? えっ、岩淵!?」
げっそりとやつれてはいる。
しかし、明らかに、光紀が良く知っている「栽松隆也」の口調で、隆也は光紀に話しかける。
「おいおいおい!! 何で俺、温室にいるんだよ!! お前かこの、岩淵!! フザけんな……」
光紀は無言で隆也を抱きしめる。
この奇妙なハイテンション、間違いなく正気の隆也だ。
「お帰り、栽松……」
光紀は、涙がにじんだ顔を見られたくないと思う。
だから、隆也の痩せた肩に顔をうずめている。
「もう大丈夫だ、もう大丈夫だから……」