20 病院にて

「あれ、岩淵さんと相馬先生はどこッスか?」

 

「何か、さっき、岩淵さんが相馬先生を引っ張ってどこかに車で出て行ったんですけど、どうしたんでしょうね……」

 

 昨日の今日で、遅めに起きて来た、岩淵家の離れの一室。

 善巳も真名も、今滞在している家の息子である光紀が、何を決心したのかなど知らず。

 恐らく、星美が付き合ってやっているのだから、終わったかに思えている一連の事件が、まだ解決していない要素が残っているのだと、予感していたのだ。

 

 

◇ ◆ ◇

 

「本当にいいの?」

 

 光紀の覆面パトカーの助手席で、星美はいつものように笑いを含んだ綺麗な声で、そんな風に問いかける。

 運転席には、光紀が真剣な顔でハンドルを握っている。

 

「栽松さんは、女帝様に魅入られているわ。彼を正気に戻すことは可能だけど、女帝様と……シュブ=ニグラスさんと切り離すことは不可能だわ。正気に戻しても、いつまた前と同じようになるかわからないわ。もっと酷くなるかもね?」

 

 それでも? と星美は、運転席の光紀に問いかける。

 車は、黄幡市の東側の山裾、長期入院用の精神病院に向かって進む。

 平成初期に今の建物になったという、歴史自体はもっと古い病院。

 山の濃い緑の向こうに、煤けた白っぽい外壁が迫って来る。

 

「とぼけないでください」

 

 光紀の答えはそっけない。

 

「あなたなら、シュブ=ニグラスの影響を最小限にして、栽松を救う方法を知っているはずだ。それを実行していただきます。それと、無事に栽松が復帰した後のケアも手伝っていただきますからね」

 

 問答無用の横柄さで言い渡した光紀を、星美がきゃらきゃら笑う。

 

「ええ、それは知っているわよ。でも、女帝様と切り離せない以上、栽松さんに対する彼女の影響をゼロにはできないの。栽松さんの周りには、常に女帝様の子供たちや眷属のうち誰かしらはうろついているようになると思うわ」

 

 まあ、昔からそういう人はいたけれど。

 ドルイド僧って言われているような人たちとかね。

 栽松さんは彼らみたいにおチビちゃんたちを使いこなせるかしら?

 星美の言葉に、光紀は、じろりと彼女を睨む。

 

「使いこなせるかしら、ではない。使いこなせるように、誰でもない、あなたが栽松を訓練するんです。嫌とは言わせませんよ」

 

「ハスターの銃」で散らばりたくはないでしょう?

 警察官とは思えぬ露骨な恫喝を口にする光紀を、星美はますます笑う。

 まるで自分の尾を追って走る子犬を面白がるような、親しみは籠っている反面、どこか高慢な響きのある笑い方。

 

「あら、訓練してどうなさるおつもり?」

 

「栽松を警視庁に復職させます。私と同じ、異象捜査課に配属させることになると思いますが」

 

 一見淡々としている声の響きだが、有無を言わせぬ調子に、星美はまた面白そうに笑う。

 

「それはいいお考えかもね? 異象捜査課さんは人手不足みたいだし」

 

「ご存知なら結構です」

 

 車は、少々の勾配のある駐車場に滑り込む。

 光紀と星美が、覆面パトカーから降りる。

 ところどころに庭木の植えられた敷地を横切り、大きな庇の張り出した病院の玄関口に辿り着く。

 

「栽松は、長期入院病棟の五階です」

 

 光紀は、長椅子の並ぶ待合室を素通りし、星美を従えるようにして、緑色の扉のエレベーターに乗り込む。

 五階のボタンを押し、そのままエレベーターが上昇を始める。

 

「やっぱり、栽松さんに憑いている女帝様の影響は、病院にも出ているみたいよ?」

 

 星美がうふふと含み笑い。

 

「精神病院なのに、患者さんたちにはお悪いこと」

 

 光紀が振り返る。

 

「どういうことです?」

 

「五階に着いたらわかると思うわよ。栽松さんの病室ってかなり面白いことになっているでしょうね」

 

 エレベーターが五階に着き、軽い音を立てて扉が開く。

 

「ん?」

 

 病院にネズミ?

 そんな不衛生な。

 一瞬、光紀は眉を顰めそうになって、はたと気付く。

 違う。

 ネズミではない。

 

 エレベーターホールから逃げて行った「それ」は、妙に体の細長い、奇妙な生き物である。

 例えるなら、魚に白い毛皮が生えたように見えるとでも言うべきか。

 魚でない証拠に小さな四肢があり、ちょこちょこ走り回るのは、妙に浮遊感のあるネズミ、に見えなくもない。

 

「あ、普通の人には見えないわよ、あのネズミちゃん」

 

 まるで光紀の内心を読み取ったかのように、星美が説明する。

 

「それと、あの子はネズミじゃなくて、この国の言葉で言うなら管狐(くだぎつね)ね」

 

 女帝様を崇める魔術師さんたちが使う子たちね、と付け加えると、光紀はじろりと星美を見据える。

 

「あれも、栽松の影響だと?」

 

「間違いなく、ね」

 

 光紀は、もう一度管狐の消えた廊下奥を睨むと、すぐ目と鼻の先のナースステーションへ向かう。

 

「すみません。栽松隆也の病室を確認したいのですが」

 

 光紀が警察手帳を提示すると、窓口近くに座っていた年配の看護師が、はっとした顔で立ち上がる。

 

「あの……少しおかしなことに」

 

「おかしなこととは?」

 

 光紀が怪訝な顔をすると、その看護師は意を決したようにうなずく。

 

「……とにかく、ご案内します」

 

 光紀と星美は、その看護師の案内に従って、病室が並ぶ廊下を奥へと進む。

 看護師の前を更に案内するように、あの管狐が進む。

 時折、どこかの病室から叫び声が聞こえる。

 恐らくはその患者だけが見える誰かに向かい、罵るような声。

 

「……こちらです」

 

「509」と番号が記された個室に、光紀と星美は立つ。

 

「驚かないでくださいね……」

 

 看護師が鍵を開ける。

 

「……!? 栽松!? これは!?」

 

 光紀は、その病室の内部を見て思わず声を上げる。

 そこは、到底屋内とは思えないほどに、植物が繁茂した場所だったのだ。

 全く手入れのされていない温室か植物園のよう。

 

「壁や床から、何故か植物が生えてきて……栽松さんは……」

 

 看護師が奥に目をやると、植物の隙間に、何か白い者が見える。

 高さからすると、もしやベッドであろう。

 その上に、無精髭の生えた男。

 げっそりしていて、光紀も一瞬栽松隆也かどうか迷うほど。

 

「栽松……!!」

 

 光紀は息を呑む。

 彼の周囲には、ふわふわ浮く火の玉のような光、もやのような光に包まれた獣、白い猿に似た何かが、彼を取り囲んでいる。

 栽松隆也は、彼らと何やら話をしているように言葉を呟いているのだ。

 

「こんな風に、独り言を言うばかりで……友達がいると」

 

 看護師は溜息をつく。

 彼女には、隆也の周囲の妖魅は見えていないのだ。

 

「……すみません。外で待っていていただけますか」

 

「え、はい……」

 

 光紀は、看護師を室外に出させることに成功する。

 星美が、くすくす笑う。

 

「すぐにでも、栽松さんを正気に戻せるけど。でも、栽松さんがもし万が一、また発狂するようなことがあったら、今度は命が危ないかも知れないわ。人間の正気っていうものは、ポットの中の麦茶じゃないのよ。不足すれば足せばいいってものでもないわ」

 

「しかし、足さなければ、栽松は永遠に麦茶を飲めませんね。さ、すぐにこいつを治してください」

 

 光紀が、星美の腕を引っ張り、隆也の前に突き出す。

 

「……あら。誰か来たわよ」

 

 光紀が顔を上げる。

 病室の奥、ひときわ繁茂した葛の茂み。

 そこから、黒々とした怪物が、蹄を鳴らして姿を現したのだ。