「……電話……鳴ってますね……」
真名は、思わず口にする。
ちょっと聞いただけではオルゴールのメロディみたいな綺麗な旋律のベルは、呆然とする三名の人間と面白そうな一人の正体不明の何者かを尻目に鳴り響き続ける。
「あの……皆さん……あれ……見て下さいッス……」
善巳の妙な震え声に、真名も光紀も訝る。
彼が手にした懐中電灯で照らした、電話機の脇。
「あ……」
真名は思わず呻く。
まさに今鳴り響いている電話機。
その脇には、本来壁のジャックと繋がっていなければいけないはずの電話線が、紐のようなもので括られて埃を被っている。
「電信網と繋がっていないのに鳴っている電話」。
電話はまだ廃墟にベルを響かせる。
早く誰か出ろと言わんばかりに。
「みんなどうするの? 多分、これを鳴らしている人、誰かが出るまで鳴らし続けると思うわよ?」
星美がさも面白そうに、ヴェールの下でくすくす笑う。
残り三人が、顔を見合わせる。
口を開いたのは、真名である。
「……私、手が空いてますから。出てみますね」
素早くメモとペンを用意し、電話台に向かう。
「……すみません、よろしくお願いします」
光紀が、真名の背後をガードするように銃を構え直す。
善巳は真名が手元を見やすいように、電話台の上を照らす。
一呼吸。
真名は、思い切って受話器を取り上げ、左の耳に当てる。
「はい、もしもし。宇津木ですが、どちら様ですか」
律儀に名乗る真名の耳に飛び込んで来たのは、異様な声である。
ぞわりと、それを真名の脳が認識する前に。
彼女の意識は、闇に消し飛ばされる。
◇ ◆ ◇
「宇津木さん!! 宇津木さん、しっかり!!」
誰かにがくがく揺さぶられる気配がして、真名ははっと目を覚ます。
薄墨のかかったような視界の中、誰かの顔がぼんやり浮かび上がっている。
善巳ではなかろうか?
「あ……八十川さん……あの……」
真名は何が起こったか把握しようとする。
どこか廊下のような場所に、自分は横たわっているようだと、彼女は認識する。
地面に置いてあるのだろう、懐中電灯が低い壁際を照らしている。
傷んだ壁紙、埃まみれの廊下の床。
善巳の向こう側に、銃を構えたまま周囲を警戒しているのだろう光紀、その向こうに面白がっているのだろう星美が見える。
「宇津木さん、失礼ッスけど、てんかんとかじゃないッスよね?」
唐突に尋ねられ、真名は暗がりで目をぱちぱちさせる。
「いえ、そういう病気はないですが……私一体……」
状況が把握しきれなくて動転したままの真名に、善巳が緊張の感じられる声で応じる。
「宇津木さん、あの電話に出た直後に、叫び声を上げて駆けだして、ここで倒れられたッスよ。覚えてないスか?」
真名はぎょっとする。
「いえ……全然覚えてなくて……そうだったんですか、すみません……」
あの電話で、何と言われたのだろう?
何か声が聞こえたようなぼんやりした記憶はあるが、その声が何と口にしたのか、全く記憶にない。
「ニャラルトホテプ……なるほど、奴が噛んでいるという訳ですね」
光紀が、相変わらず周囲を警戒したままでそう呟く。
ニャラルトホテプ?
耳慣れない外国語らしき言葉に、真名は怪訝な顔で半身を起こす。
「あの……それはどういう」
「宇津木さん、あなたがあの電話の直後に叫んだ言葉です。大半が訳のわからない音の羅列でしたが、『ニャラルトホテプ』という神名は聞き取れましたね」
神名!?
真名はまじまじと目を見開く。
「ああ、やっぱり、あの困ったちゃんがちょっかいをかけてきたわね。間違いなく、子猫ちゃんに興味を持ったわね。良かったわね」
うふふ、と笑う星美に、真名は思わず視線を向ける。
さっき口にしていた「困ったちゃん」というのは……。
「あの、状況が把握しきれないのですが。そのニャラ……さんが困ったちゃんとおっしゃる方で……」
真名がどうにか疑問を伝えようとした時。
「ニャラルトホテプは、いわゆる邪神の一柱ですよ。『這い寄る混沌』『闇に吼えるもの』などという異名で知られる……およそ、性質の良し悪しで言うなら、最悪の部類ですね」
光紀が淡々と解説を買って出る。
真名はますます目を見開き、光紀と星美を交互に見やる。
「えっ……あの電話かけてきたのって、邪神なんですか!?」
神も電話をかけるのだろうか?
真名は混乱の極みである。
話の規模が大きすぎて全くついていけない。
星美はそれが面白いのかくすくす笑う。
「まあ、人間がするような方法でかけてきたんじゃないと思うけど。あの困ったちゃんなら、あの繋がってない電話線に侵入するくらい朝飯前よ。あの本の次の持ち主候補に接触したかったんじゃないかと思うわ」
さらりと言い放つ星美に真名はもうどうしていいのかわからない表情を向ける。
自分は何に目を付けられたのか?
と。
光紀が星美を振り返る。
「相馬先生。奴が接触してくることをご存じでしたね?」
星美は肩をすくめる。
「まあ、多分何かちょっかいかけてくるだろうなとは思ってたわよ。直接的に命を奪うようなことはしないと予想はついていたわ。だって、彼にとっても『妖蛆の秘密』を持つ人間が増えるってことは利益があるものね。知ってるでしょ?」
光紀は眼鏡の奥で目を細める。
「……ネフレン=カの統治期間の知識……奴が主神だった……なるほど、この事件は奴の意志という訳ですか?」
「いいえ、違うわ」
さらりと、星美は否定する。
「子猫ちゃんに『妖蛆の秘密』の新しい持ち主になってほしいっていうのは、私の意志よ。実害が出ているもの、いつまでもこのままじゃいけないっていうのは、私も前から考えていたの。あの困ったちゃんは、いつものようにいたずらを仕掛けて来ただけね」
あなた、予想はつかないの?
と、星美が笑いを含んで。
「あの困ったちゃんより、位で言えば、私の方が格上なのよ? あの人の関係者だもの、私」
その時。
何かが床を叩く激しい音が響き渡る。
振り向きざまに、光紀は何かに立ちはだかるように真名と善巳の前に立つ。
そして、いきなり銃の引き金を引いたのだった。