地図アプリの指し示す場所には、あと一歩で原生林と見紛うばかりに生い茂った庭木に囲まれた屋敷が存在していた。
どういう者が住んでいた住居だったのか、いつからこんな風な廃墟なのか。
真名にも善巳にも光紀にも全く見当がつかないまま、彼らは通話アプリで星美に指示されるまま、ここにやって来ていたのだ。
よく正体のわからない鳥の鳴き声のせいで、ますます山奥じみているそこは、東京市部の一角にある、ごく当たり前の住宅地の中に、突如現れる。
背後はそのまま小山というべき原生林に繋がっており、人の気配は全くない。
のだが。
「見て下さい、これ。10年以上前の日付ですね」
その緑に埋もれた古屋敷の正門らしき場所。
鉄鎖で封じられた門扉に括りつけられたプラスチック製の進入禁止の注意書きは、今から12年前の日付を指している。
「一応……写真に記録しておきますね。後で記録が必要になるかも。警察にも必要ならば提出いたします」
真名が申し出ると、光紀はうなずいて、お願いしますと応じる。
デジタル一眼レフのシャッター音が響く中、善巳がふと顔を上げる。
「……変な鳴き声聞えないスか?」
「え? どれです」
光紀が釣られて耳を澄ますと、遠くから尾を引く様々な硬質な物品をこすり合わせたような吼え声が響く。
くぐもってはいるが、犬の遠吠えではないというのは、素人にもわかる奇怪な響き。
「なんだろう? 屋敷の中? まさか、何か猛獣を飼っていて、そのままなことはないでしょうし……」
光紀が怪訝な顔を見せると、善巳はきっぱり首を横に振る。
「あれは、知る限り虎とか豹とかライオンとかじゃないッスよ。海外の動物保護区や動物園にも行って、いろんな生き物の声は聞いたッスが、あんな鳴き声を出す生き物なんて……」
光紀は一瞬眉をひそめ、問いを投げる。
「あの、おかしな血を吸う生き物の声、ということは?」
善巳ははたと首を振る。
「可能性がない訳でもないッスが。しかし、するとここに……?」
ぎくりとした様子の善巳に、光紀が畳みかける。
「あの女性……の姿をした方。何者なのかわからないですよ。あの怪物に、エサを投げ与えようというのかも」
「え、待ってください、そんなことは」
撮影を終えた真名がつかつか近付いてくる。
「もし、そうなんだったら、我らをわざわざ助けたりしませんよ。それに言ってたんです、あの方は。運命の鍵は、この私が握っているそうなんです。『この世界に関わるというのなら、私が手伝ってあげられるかも知れない』……そう、仰いました」
光紀は、その言葉に、ふむ、と鼻を鳴らす。
「『この世界』……どういう意味なのか。こういう化け物がいる世界、という意味なら、筋は一応通りますが」
「ううん……世界が違う、違う世界から来た、だから、あの生き物はあんな……まさか……ッスよね?」
ちょっと映画の見過ぎッスかね、と善巳は乾いた声で笑う。
真名は、ふっと何かを思い出したように、首を横に振る。
「可能性がない訳ではないのかも。だって、あいつら、どう考えても理屈に合わない生き物じゃないですか。なんで、体がほぼ透明なんでしょうね? 説明できます?」
善巳、光紀と見回したが、二人とも困惑したように首を横に振るばかり。
「それに、理屈に合わない生き物だっていうなら、あの方……相馬先生もそうでしょう? あの方。何者だっていうのかしら? ちゃんと意思疎通できるのに、あんな妖精みたいな……」
「そこですよ。おかしな生き物だけならともかく、”おかしな人間”が存在する。これは、ごまかしが効きません。なにせ、ここにいる全員が助けてもらってる、つまり、あの生き物を退ける力を見せたんですから」
光紀が目を底光らせる。
善巳は、首をかしげ、なにかを手繰り寄せるように、こう呟く。
「不思議ですよね。人間の姿から、半分虫みたいな姿に。物理的におかしいですよね?」
「物理的におかしい存在がいる、まず、これは認めなければなりませんね」
光紀が断言する。
「実際、そういう前提でこの社会は作られていたりするんですよ。多くの民間企業にも、そうした物事に直面した時に対応するマニュアルはあるんです。そのマニュアルの本当の意味を知っているのが、ごく一部というだけでね?」
真名も善巳も、顔を見合わせる。
まさか自分たちが今まで生きてきた社会にそんな要素があったとは、にわかに信じがたいのだろう。
「相馬先生は……ここに、あの生き物を退ける魔法の本があるって仰いました。魔法の本って。どういう意味なのかしら?」
真名は思わずこぼす。
その時。
「そのまんまの意味よ、子猫ちゃん。魔術書って、ご存知?」
がしゃん、と門扉の鎖が落ちる音。
振り返った三人の前に、あのヴェールの占い師が立っていたのだった。