19 送還

「危ない!! 下がって!!」

 

 その無防備に立ち尽くしているかに見える人影に向かって、光紀が鋭く警告する。

 白っぽいタイルが日差しを反射する、大きな博物館の前庭。

 博物館の屋根の上には、見るだにおぞましい漆黒の怪物が、翼を広げ、背中の触手をうねらせている。

 

「そこから離れて!! なるべく遠くへ」

 

「そんな必要ないと思いますよぉ。だって、あいつは僕の昔馴染みですからねぇ」

 

 変に暢気な間延びした声で、その人影が応じる。

 振り返った風貌を見れば、なかなか整った目鼻を持つ、まだ若いように見える男性である。

 ぱっと見、近隣の若手神職が公園に紛れ込んだという風情。

 だが、何か。

 背筋がざわざわするのはどういう訳か。

 別段嫌悪感を抱く理由などない、こざっぱりした男性なのに。

 

「あら、困ったちゃんじゃないの。今はそういう姿なのね」

 

 不意に、星美がそんなことを言い出す。

 真名はじめ、光紀も善巳も振り返る。

 

「困ったちゃん……というと……」

 

「……ニャラルトホテプ……邪神……?」

 

 真名、善巳が息を呑む。

 光紀が咄嗟に脇のホルスターから拳銃を取り出し、その青年にポイントする。

 

「動くな!! 動くと撃つぞ!!」

 

 鋭く警告を発し、光紀は真名に呼びかける。

 

「宇津木さん。こいつは私が押さえていますから、『送還』をすぐに。ここでセトに暴れられてはまずい」

 

 途端に聞こえたように、セトが奇怪な吼え声を轟かせる。

 何とも名状しがたい、高いとも低いとも表現できない、神経を錯乱させるような咆哮である。

 耳にするだけで、ごっそり精神が抉られるような。

 

「セト……!!」

 

 真名が、「妖蛆の秘密」を片手に進み出る。

 と、彼女にちらと視線を送ったニャラルトホテプが、不意に笑い声を響かせる。

 

「いいんですかぁ? このおっかない人の言うがままに、セトなんかの飼い主になっても」

 

 はたと、真名の動きが止まる。

 光紀は動じていないように見えるが、善巳は虚を突かれたように、星美とニャラルトホテプを交互に見やる。

 

「このヨグ=ソトースのところの跳ねっ返り娘さん、数いるあの人の子供の中でも、一番たちが悪いんですよぉ。僕を困ったちゃんなんて呼びますが、僕に言わせれば自分のことを棚に上げてよく言うよ、です」

 

「あらあら、今度はそういうやり方で、人間ちゃんたちをからかうことにしたのね? 今取り込んでるから、後にしてちょうだい」

 

 星美はめんどくさそうにそう言い捨て、真名の傍に歩み寄ろうと……

 

「この人がいたら危ないので、僕が連れて行きますね。送還は頑張ってください」

 

 笑いを含んだ声で、いきなりニャラルトホテプは、星美に掴みかかる。

 光紀の指が引き金にかかり……

 

「行け!!」

 

 鋭く響いたのは、真名の声。

 あの半ば見えない影が、恐らく十数匹、弾丸の勢いでニャラルトホテプに殺到する。

 

 声もない。

「星の精」に食らいつかれたニャラルトホテプの姿が見えなくなる。

 正確には、あの神職の装束だけを残して、体が消え去っていたのだ。

 星の精が食いついたのは、その抜け殻の衣装だけ。

 どこからか笑い声が響いた、気がする。

 

「え……あれ……消え……!?」

 

 善巳が唖然とする。

 光紀は星美を巻き込むことを恐れて銃撃できずにいた銃を下ろす。

 

「宇津木さん、今のうちにセトを!!」

 

 光紀が声を上げるまでもない。

 

「セト……!!」

 

 星の精を一瞬で送還した真名は、今度は博物館の屋根のセトに向き直る。

「妖蛆の秘密」を手に、朗々と奇怪な呪文を唱える。

 

 え いあ あいあ ずろう

 まし へじ まざし べい

 あ いあ せと うぎく

 いた むんない ぜー

 

 どういう意味かは、星美以外には聞き取れぬ、それはセト送還の呪文である。

 

 日差しが、一気に明るくなった気がする。

 

 光紀、善巳、そして星美が顔を上げると、博物館の淡い色の屋根の上には、すでに漆黒の怪物はいなくなっていたのだ。

 

 

◇ ◆ ◇

 

「宇津木さん、八十川さん、相馬先生。後日、恐らく警視庁で改めて事情をお訊きしますので。準備をしておいてください」

 

 今更ながら、自分の血と、星の精の血で凄いことになっている光紀が、救急車のストレッチャーに連れていかれている。

 真名も善巳も心配そうに彼を見送る。

 周囲にはようやく通報でかけつけた警察車両が何台も。

 それに混じって、救急車。

 思われていたよりも怪我が深手だった光紀は、病院に搬送されることになってしまったのだ。

 

「では、T総合病院に」

 

「はい」

 

 そんな声と共に、光紀を乗せたストレッチャーが、救急車に運び込まれる。

 それを見送って、真名たちに向き直った人影が一つ。

 

「ふむ。なるほど。こちらのヴェールの女性……相馬星美さんが誘って、H市郊外の廃墟に魔術書を取りに行った、その際、うちの刑事の岩淵も同行した、と。そういうことですね」

 

 男くさい感じのがっちりした刑事が、手帳片手に、真名、善巳、星美から大まかな事情を聞き取っている。

 

「はい」

 

 真名は「妖蛆の秘密」片手に、静かに肯定する。

 すぐ隣に、善巳と星美。

 星美は上機嫌な様子で、善巳は走り去る救急車を気にしている。

 

「ここの博物館の屋根にいた生き物は……」

 

「私が『送還』しました」

 

 真名は、きっぱり応じる。

 

「私、魔女なので」

 

 

 

クトゥルフ神話 「魔女のはじまり」【完】