「宇津木さん!! しっかり!! 戻ってきてください!!」
光紀の声と共に、強く肩を揺さぶられる衝撃で、真名は我に返る。
一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなる。
やや薄暗い部屋。
暗い色のラグマット。
壁一面に書棚。
あの部屋だ。
「あっ……岩淵さん!? 八十川さん!? 相馬先生!?」
真名は、へたり込んでいた自分に気付く。
左側に破砕された窓から流れ込む、強い午後の光線と、生暖かい風。
その風でも吹き飛ばし切れない、古い書物の沈んだ匂い。
視界の端には、あの半ば透明に見える、「星の精」の死骸が山積みだ。
「ああ、良かった~!! 悲鳴を上げたと思ったら動かなくなったもんスから、ヤバイと思ったッスよ」
善巳が光紀とは反対側から覗き込むようにしている。
真名はきょろきょろ、改めてその部屋を見回す。
魔術師の書庫には違いない、が。
「あの……何が起こったんですか? 記憶が……」
「恐らく宇津木さんの召喚に応えたのでしょうが、セトが窓を破って現れました」
銃を収めた光紀が、静かに説明してくれる。
「そして、部屋の中にいた、『空飛ぶポリプ状生物』を捕えて、どこかに飛び去ったのです」
「え……え?」
途中から意味がわからない。
真名は思わず、破砕された窓ガラスの破片が転がる、奥の重厚な机あたりを見回す。
「あの魔術師さん。亡くなったはずの奥脇孝三郎さん、ね。もこもこちゃんの体に自分の魂を封じ込めて転生していたみたいね?」
机の上の、何やら時代がかった革製の表紙の書物を繰っていた星美が、事もなげに補足説明する。
「もこもこちゃん」というのが、彼女にとっての「空飛ぶポリプ状生命体」なのだろう。
「私たちが最初に電話がかかってきた部屋で出くわした霊体は、多分奥脇さんが魂の一部を切り離して飛ばして、様子見していただけだと思うわ」
真名は、どうにかその説明を飲み込もうとする。
あの魔術師の今の正体が、おぞましいぐにぐにしたポリプ状の生き物。
そして、それはやってきたセトにさらわれてしまった。
ふと、星美が真名を手招きする。
真名は、光紀に手を支えられて、ふらふら立ち上がる。
「でね、『妖蛆の秘密』、あったわよここに。さ、あなたのものになさいな」
星美に促され、真名ははっとして立ちすくむ。
星美が読んでいるあの古めかしい本は……
「あの……先生。私のものにするって、どうするんですか?」
真名は、恐る恐る星美に近づき、手元を覗き込む。
アルファベットの一種で印刷された、黒い革表紙、黄色く変色した羊皮紙らしき紙を束ねた書物。
「読むのよ。手伝ってあげる」
「え……」
星美に促され、真名はその判別不明の言語で記されたページを覗き込む。
「何ですか、これ……何語……」
と、背後から善巳が覗き込む。
「うわ、ラテン語ッスね。普通は読めないッスよこんなの。俺だって、生物の学名を知らないといけないから、ほんのさわりを知ってるくらいッス」
と。
背後から、真名のうなじに、何かが触れる。
それが星美の、あの糸だろうと認識する前に、真名の頭の中で百万の色彩を詰めた爆弾が炸裂する。
「セトと……星の精を制御する召喚呪文を……」
真名は、それが自分の声でないように聞いている。
星美から「妖蛆の秘密」を受け取り、まるで最初からどこに何が書いてあるか知っているように、ページをめくる。
……読める。
真名は、いつの間にか、全く学習したことがないラテン語の文章の意味を、全て把握している自分に気付く。
だが、それを奇異に思うこともない。
まるで子供の頃の記憶を何かのきっかけで思い出した人のように、真名は「妖蛆の秘密」に記されている呪文を、当たり前のように吸収していたのだ。
「……行きましょう」
真名は、「妖蛆の秘密」を軽い音と共に閉じる。
「セトが呼んでいます。彼を、いるべきところに戻さないと」
◇ ◆ ◇
「今、無線が入りました」
車の運転席で、光紀が低く告げる。
助手席には真名。
後部座席には、善巳と星美が並ぶ。
車は、半ば山林に埋もれた廃墟から、人気(ひとけ)の多い街中へと進んでいく。
「只今、F市にて、黒くて大型の、飛行型クリーチャーが目撃されました。間違いなくセトでしょう」
「まずいですよ、あんなのを普通の人が目撃したら……万が一にも接触したら……」
真名は唇を噛む。
「一回引っ込めるためには、召喚者である子猫ちゃんが、送還の呪文を唱えないといけないわ。そのためにはまずセトに接触しないとね?」
星美がくすくす笑う。
となりで、善巳が窓の外を見やる。
「セト、F市のどのあたりに飛んで行ったんでしょうね? あそこ大きな生き物が降りられそうなのは結構……」
「……K公園ですね」
警察無線から流れて来た情報を、光紀が繰り返す。
「博物館のあたりです」
タイヤが軋む。
光紀は、パトライトを車の屋根に乗せ、スピードを上げてその公園への最短距離を辿ったのだ。
◇ ◆ ◇
「……!? 誰かいる?」
夏の午後の焼け付く日差しを、公園の木々が遮っているあたり。
博物館の建物の上に、漆黒の影。
ゆらゆらゆれながら、周囲を睥睨しているような。
そして、その前庭あたりに。
神主のような水色の袴の和装の、若い男性に見える何者かが、静かにたたずんでいたのである。