16 魔女とセト神

「え……え……!! 相馬先生……!?」

 

 あまりのことに、真名は一瞬意味が取れない。

 星美は確かに顔を真名に向けながら、セトに契約を促した。

「魔女」というのが真名を示しているのは間違いないようだ。

 

『ホウ。ヨグ=ソトースノ娘ヨ、コノ者ト契約シロト申スカ?』

 

 セトはぐいと大きな頭を下げて真名を覗き込む。

 真名は全身が恐怖で強張る。

 

『ソレニ何ノ意味ガアル?』

 

 星美がセトに向けて軽やかに笑う。

 まるで飼っている大型犬にでも纏わり付かれたような態度。

 まあ、この人の方が格上ってことなんだろうな、と、真名は恐怖で痺れた頭の片隅で考える。

 

「わかっているでしょう、セト。ネフレン=カの治世は間もなく終わるわ」

 

 星美がさらりと告げる。

 元居た時代からすればそれは自明のことではあるはずだが、その時代の渦の只中にいるこの邪神にとってはどうか。

 

「それは既に定められたこと。何もかもなくなる訳ではないけれど、でも今とは違う時代になっていく。あなたを呼ぶ声は途切れるということよ。でも、未来から来たこの魔女の子と契約すれば、未来においてまたあなたは名前を呼ばれる」

 

『ヌゥ……』

 

 セトが低い声で唸る。

 この反応からすると、星美の口にしたことは、セト自身もかなり認識しているということなのだろう。

 しかし、かといって打開策があった訳ではないというところか。

 

 真名は、ちらと光紀を振り返る。

 銃を構えたまま、彼は真名にうなずきを返す。

 そうした方がいいと、彼も判断したようだ。

 恐らく、真名がセトを制御できるようになれば、「奴ら」の脅威に対抗できる手段が増えるという判断であろう。

 それ以前に、この場を凌がなくてはいけないという要因が大きいかも知れないが。

 

『ヨカロウ』

 

 セトが唸り、身じろぎをする。

 

『魔女ヨ。我ガ前ニ来タリテソノ名ヲ告ゲヨ』

 

 真名ははっと緊張する。

 

「大丈夫よ、子猫ちゃん。一緒にセトさんの前に行くのよ」

 

 星美が、真名の肩を抱きかかえるようにして促す。

 

「えっ……えっ……でも、そんな先生……私、どうしたらこんな凄い人をどうにかできるんですか」

 

 真名も流石に急には決心がつかない。

 わたわたと動揺していると、星美がぎゅっと肩を抱いて来る。

 柑橘系の良い香り。

 

「『妖蛆の秘密』を手に入れれば、この人を完全に制御できるようになるわ。あなたは、この人と契約して、あの屋敷に戻って、魔術書を探し出せばいいの」

 

 星美があっさりと口にしたものの、そう簡単に行くのだろうか?

 だが、この今の状況からして、そうする以外に道はなさそうというのも事実。

 

 そうこうしているうちに、真名は星美に連れられ、善巳と炎の精の脇をすり抜けて、真名はセトの真ん前にやってくる。

 善巳が、呻くように、宇津木さん……と呼びかけたが、真名は振り返って、大丈夫だとうなずいてやるしかできない。

 

「さあ、セト。この魔女ちゃんと契約を」

 

 星美がセトがかぶりつけるくらいの距離で、真名の体から手を離す。

 見上げるセトは、まさに誇張抜きに小山かと思う大きさ。

 漆黒の体色に、悪夢のような触手が後光よろしくうねくる。

 セトが真名に覆いかぶさるように。

 

『魔女ヨ。汝ノ名ヲ告ゲヨ』

 

「宇津木真名……です」

 

 真名は恐ろし過ぎてその恐怖すら痺れたようになり、問われるままに名前を告げる。

 それがどんな意味があるのか完全に認識しているとは言い難いものの、事態を前進させるとは判断していたのだ。

 

『魔女ウツギ=マナヨ、汝ニ我ノ加護ヲ与エル』

 

 セトの首から背中にかけてうねくる極彩色の触手のうち一本が、蛇のように伸びて、真名の左の鎖骨の下あたりに触れる。

 一瞬、チクリとした感触があったが、真名はそこに感じたことのない奇妙な熱を感じる。

 

『汝ガ必要ナ時ニ、我ガ名ヲ呼ブガ良イ』

 

 その瞬間、真名の視界に、百万の色彩が溢れたのだ。

 

 

◇ ◆ ◇

 

「あ、あれ……!?」

 

 真名は、はたと我に返る。

 

 そこは。

 あの乾いた無慈悲な光の満ちる古代エジプトではない。

 湿った匂いのする廃墟。

 見覚えのある、元の廃墟だ。

「次元をさまよい歩くもの」の像も、うっそりと薄暗い室内に立ち尽くしている。

 元の部屋。

 

「あ……!! 戻ったんじゃないスか!?」

 

 恐らくあのへたり込んだ姿勢のままで戻ってきたのだろう善巳が、床から立ち上がる。

 彼の体の周囲には、あの炎の精はいない。

 元の善巳。

 

「……そのようですね」

 

 光紀が、銃を構えたままの姿勢で、周囲を見回し確認しているのが見て取れる。

 端正な横顔に廃墟の影が落ちる。

 

「お疲れ様、子猫ちゃんもみんなも。さて、また本探しに戻らないとね? ウフフ……」

 

 星美は、相変わらずあの謎めいた姿でそこに立っている。

 三千年以上の時を移動できたのだから、彼女の力に違いない。

 

「宇津木さん。お体の方は何ともありませんか? セトに触られていたようですが」

 

 光紀が真名に近づく。

 真名は、はたと我に返り、セトに触れられた、左鎖骨下あたりに手をやる。

 何となくうずいているようにも思える。

 

「痛い? ちょっと服をはだけて見てごらんなさいな。どうなっているのかしらね?」

 

 星美にそう促され、真名は怪訝な顔をしたものの、やはり気になって、サマーニットをめくって左鎖骨あたりを露出する。

 

「ん……特に傷とかないみたいッスね? 良かったッス」

 

 俺のせいで怪我したら、申し訳ないッスから、と善巳が安堵したように口にするや、光紀がすっと近づいてくる。

 

「宇津木さん。そのほくろは、最初からあったものですか?」

 

 いきなり問われ、真名はぎょっとしてますますニットをめくる。

 何か視界に違和感があるような気がする。

 真名は荷物から手鏡を取り出すと、左鎖骨下を映す。

 

「あれ……こんなところにほくろなんて」

 

 身に覚えのないほくろである。

 いつの間にこんなものが。

 たしかにここにセトが触れたはず。

 

「失礼、宇津木さん。そのほくろ、もしや感覚がなかったりしませんか?」

 

 光紀が緊張の感じられる声で問いかける。

 真名ははっと指先でそのぽつりとしたほくろに触れる。

 

「……あ……確かに、触れた感覚がないかも……」

 

 しかし、うずいた感じはする奇妙さ。

 光紀は銃をホルスターにしまってうなずく。

 

「魔女のほくろですよ。古い時代のヨーロッパでは、魔女は悪魔と契約した印として、そういう痛覚のないほくろが体のどこかにあると言われていましてね」

 

 どこか言いにくそうな光紀の言葉に、ああ、と善巳が被せる。

 

「あ、それ知ってるッスよ。昔のヨーロッパでそれがあると、魔女だってんで拷問されたんスよね」

 

 真名は思わず鏡で再度小さなほくろを確認する。

 

「へえ……これが」

 

 私、もう魔女というものなのか。

 数百年昔のヨーロッパに生まれていたら、拷問されて殺されていたのか。

 妙な感慨に浸る真名である。

 

「子猫ちゃんはもう魔女だわ。邪神と契約しているもの」

 

 星美がくすくす笑う。

 

「でも、もっと完璧な魔女にならないと危ういわ。このままじゃ、セトを呼び出すことはできても制御はできないの。制御するには、『妖蛆の秘密』を得て本格的な召喚魔法を覚えないとね」