15 セト神と八十川善巳

「八十川さ……!!」

 

 真名も、光紀も息を呑む。

 善巳に覆いかぶさらんばかりの巨怪は、あまりに異様である。

 全身漆黒で、虚無がその体の形を纏って現れたかのようである。

 細長い甲殻に覆われた鼻面は、見るものをあざ笑うかのように下向きに湾曲している。

 とんでもなく巨大な爪のように見える肢は八本あり、石造りの床を掻いている。

 頭頂から首の後ろ、背中にかけては、うねくる炎めいた触手が出鱈目に生え、雄たけびを上げるように踊り狂う。

 虹色の粘液に覆われた膜の翼。

 

「あ……あ……」

 

「……ッ!!」

 

 真名も、光紀もその姿を見て固まる。

 理性が吹き飛び、魂だけが地球の重力の外に放り出されたかのようだ。

 逃げ出さなかったのは、彼らに勇気があるというより、あまりのことに立ったまま気絶したような状態であったからか。

 

「岩淵さん……宇津木さん……相馬……先生……」

 

 善巳のか細い、明らかに救いを求める声が聞こえているのだが、真名の光紀も動けない。

 相変わらず空間に充満するフルートの音色が耳に纏い付くが、それも彼らの正気を崖から蹴落とすことにしかならない。

 

「仕方ないわねえ。このくらいで驚いていたら、この先どうするのよ?」

 

 星美の柔らかい指が、真名と光紀、そして善巳のうなじあたりに触れる。

 彼らはおぞましい白昼夢のような喪心から覚める。

 目の前にあるのは……

 

「八十川さん!? それは!?」

 

 我に返って咄嗟に善巳に近づこうとした光紀が、彼の体の周りを取り巻く青白い炎に阻まれてはっとする。

 

 へたり込んだ善巳の体の周囲には、まるである種の生き物のような形をした青白い炎が取り巻き、ごうごうと音を立てていたからだ。

 熱気が、ぶわりと光紀を炙る。

 そこに至って光紀は、この炎のお陰で、善巳はこの黒い巨怪から護られているのだと気付く。

 

「岩淵さん……」

 

 善巳が泣きそうな顔で振り返る。

 

「わからない、わからないんです……どうなってるんですかこれ……」

 

 善巳を明らかに護ろうとしている意思を感じる炎の塊は、ぼっ、ぼっ、と音を立てながら、彼の体の周囲を旋回し警戒する。

 都合五、六体はいるように見えるが。

 

『汝ラハクトゥグァノ手ノ者カ?』

 

 不意に、全員の頭の中に明瞭な声が響く。

 光紀は目標を定めるように目を細め、真名は息を呑む。

 善巳は、がくがく首を動かし、再び正面を、その巨怪の方を向く。

 その周囲で警戒するように、炎が音を立てる。

 

「あら、見る目がないわね、セト。私が何者か、気配も感じ取れなくなったの?」

 

 星美がまるで旧知の相手にそうするように、気安く声をかける。

 明らかに、自分の方が格上だという、当然の気配を漂わせる。

 

『キサマ……ヨグ=ソトースノ子ノ一柱カ……。ナゼコノ者ドモヲ我ガ前ニ連レテ来タ……』

 

 セトと呼ばれた巨怪が唸る。

 

「セト神……。こいつに、八十川さんは狙われたということですか」

 

 光紀が、銃を構える。

 恐らくこの存在にはほぼ無駄だとわかっているが、それでもこの場を何とかしなくてはならない。

 

「セト神……? 確かそれって古代エジプトの」

 

 真名が息を呑む。

 専門的に調べたことはないが、エジプト旅行の際に博物館で見かけたことがある。

 

「エジプトには、『外なる神』と関係の深い邪神が何柱かいます」

 

 光紀は銃を構えたまま、静かに説明を始める。

 

「このセト神もその一柱。ネフレン=カの治世下でも崇められた邪神の一柱ですよ」

 

 セトが、息を洩らすような奇怪な笑い声らしきものを立てる。

 

『カ弱イ人間風情ガ、ヨグ=ソトーストクトゥグァノ加護ヲ盾ニコノセトニ逆ラウト言ウカ。汝ラノ儚イ歴史上マレナコトヨ』

 

 真名が目をぱちぱちさせ、思わず星美を振り返る。

 

「相馬先生、クトゥグァってご存知ですか?」

 

 ヨグ=ソトースさんって方と何か関係あるんでしょうか……?

 真名は、もしかして星美の親戚か何かがまた増えたのではと疑う。

 

「クトゥグァさんっていうのは、あの人とは系統違いの『旧支配者』。うお座のフォマルハウトという一等星の炎の中に住んでいる、炎の神よ」

 

 星美は意味深に声に笑みを含ませる。

 

「なるほど」

 

 光紀はピンと来たようだ。

 

「八十川さんを護っているこの炎は、クトゥグァの従者である炎の精という訳ですか」

 

 善巳、そして真名がきょとんとする。

 

「あの……それって、どういうことなんスか……? 何でそのクトゥ……さんが俺を護るんスかね……?」

 

 特に何かした覚えとかないッス、と善巳。

 

「相馬先生がヨグ=ソトースという邪神さんの関係者で、八十川さんがクトゥグァという邪神さんの関係者……?」

 

 真名は呆然と呟く。

 

「えっ!! 違うッスよ!! 身に覚えがないッス!! 名前も今初めて聞いたッスよ!!」

 

 善巳がほとんど抗議のように声を上げる。

 

『ワシモ興味ガアルナ』

 

 セトが唸る。

 クトゥグァの炎と、ヨグ=ソトースの血縁である星美に威圧されつつも、フルートを奏でる従者に囲まれてその場に留まっている。

 

『ヤソガワト呼バレテイルコノ男ハ何者カ。答エヨ、ヨグ=ソトースノ娘ヨ』

 

「八十川さんの、右頬の傷に気付いたかしら?」

 

 星美が面白そうに種明かしを始める。

 善巳がはっとしたように、そのうっすらとしか見えない傷跡に触れる。

 

「それは切り傷じゃない。鋭いけど火傷の跡なの。それも、クトゥグアの炎で付けられた火傷。これは契約の証よ」

 

「け、契約……!?」

 

 星美の言葉に、善巳は目を白黒させるばかり。

 

「多分、八十川さんが覚えていないくらいに幼い頃、近くにいた誰かがクトゥグァさんを召喚したんでしょうね。その時、八十川さんは彼に気に入られた。危なくなった時に守護するという契約の印に、彼は八十川さんの右の頬に傷跡を残したのよ」

 

 さらりと解説する星美に、善巳は呆然とした目を向ける。

 真名も似たようなもので、光紀は何かを思案する顔だ。

 

 と。

 星美が更に続ける。

 

「でねえ、セト。あなたも人間と契約してみない? この魔女さんと」

 

 星美が指差したのは、真名その人であった。