10 認識

「動くな!!」

 

 光紀が一瞬のうちに、その人影に銃口を向ける。

 

「両手を上にあげて、そのままこっちに出て来い!!」

 

 だが。

 その言葉が終わる前に、ひょろ長い壮年の人影は、いきなり掻き消える。

 瞬きの間に、そこにはすでに何もない。

 埃っぽい廃墟の廊下が、しんと奥へと伸びているだけ。

 

「えっ……消え……た……あの人……」

 

 善巳の声は微妙に震えている。

 

「どこに……」

 

「いましたよね、あそこに人が……」

 

 真名も自分の声が震えるのを自覚する。

 理屈に合わない怪奇現象である。

 あの透明な怪物をどうにか退けたと思ったら、急に消える人影。

 どうなっている。

 

「先生……先生も見ましたよね?」

 

 真名は思わず星美を振り返る。

 星美は相変わらず自宅にいるようにリラックスした雰囲気でたたずんでいるだけ。

 

「見たわよ。っていうか、さっきからずっといたわあの人。自分があなた方に認識されたと思ったから逃げただけね」

 

 何てことないように放たれたその言葉に、真名は息を呑み、善巳はかすかな悲鳴じみた呻きを上げ、光紀は目を鋭く光らせて、ちらっとだけ星美を振り返る。

 

「……相馬先生は、あの男が何者かご存知なんですね? 何者です?」

 

「あなた方にわかる概念に直して言うなら、幽霊ってことになるわね」

 

 あっさり、星美は言葉を投げる。

 

「恐らく、この家の元々の持ち主だと思うわ。と、いうことは、『妖蛆の秘密』の前の持ち主ね」

 

 真名と善巳は顔を見合わせ、光紀は銃を下ろす。

 幽霊に銃弾は通じまい。

 

「うわ……あれが幽霊ッスか……生まれて初めて見ちゃったよ……」

 

 善巳は冗談めかしたつもりらしかったが、声がますます震えていて、彼の恐怖が如実に伝わってくるばかりだ。

 

「前の持ち主の人って亡くなってるんですね」

 

 真名はすうっと息を吸い込む。

 

「やっぱり、魔術書に食われたっていう……」

 

「妙ですね」

 

 ひんやりした声で、光紀が割り込む。

 

「だとするなら、あの『星の精』は、誰が操っているんです? 誰かが魔術書を使って、あいつらを呼び出しては、生き物を襲わせているんじゃなかったんですか?」

 

 光紀は星美を振り返る。

 威圧的な視線で、説明を強制する様子である。

 

「あら。幽霊って、何もできないってお思い?」

 

 星美はヴェールの下でくすくす笑う。

 

「そういう人もいるけど、あの人はそうではないみたいよ? この屋敷で『星の精』は召喚されている、そしてこの屋敷にいる『人間』ないし『人間だったもの』は、あの元当主の人だけだもの」

 

 真名はその言葉を聞いて、ぶんぶんと首を横に振る。

 

「死んでも、『星の精』を召喚し続け、人間含め生き物を襲わせているってことなんですか? どうしてあの幽霊の人はそんなことを」

 

 真名には全く見当がつかない。

 生きているうちの魔法使いだったら、何か怪しげな儀式でもして自分を強化しようとしているのではないか、などと推測できたかも知れない。

 が、死んで肉体がなくなっているのに、あの幽霊は何がしたいのだろう?

 生きていないのでは、成長も変化も望めないのではなかろうか?

 

「あれが魔術師の類なのだとしたら」

 

 光紀が淡々と。

 

「『星の精』を呼び出した理由について、生前に何かしらの記録を残しているかも知れませんね。魔術師という連中はそうなんですよ。何か上手くいかなくなった時のために、現在やっていることの詳細な記録を残しておく」

 

 死んだ時点で年配だったようなので、紙に記録を残している可能性は高いでしょう。

 書斎にでも辿り着ければ、そうした日誌のようなものが見つかるかも知れませんね。

 光紀は更に付け加える。

 

 真名は唇を噛んで考え込む。

 

「魔術書の他に、魔術師の日記も探した方がいいと……なるほど」

 

「私が来たということは、これは警察で扱う案件になっているということです。犯行の動機や経緯なんかがわかるものがあった方がいい」

 

 光紀が更に説明する。

 真名はこの件を始めた、あの幽霊になってしまった男に想像を巡らせる。

 魔術書を手に入れ、地球上の生き物ではなかなか対抗できそうにない力を入手し、それを試してみたくなったのだろうか?

 それとも、他に何か理由があったのか。

 恐らく本人に尋ねるという手は使えまい。

 会話ができたところで、こちらの質問に素直に答えるかは別問題だ。

 

「あの」

 

 ふと、善巳が声を上げる。

 

「この生き物……警察案件だってことは、調べた方がいいってことッスよね?」

 

 真名も、光紀も、今思い出したように、床に転がっているその生き物の死骸に注意を向ける。

「星の精」の死骸。

 完全に死んでいるのは明らかだが、死んでも透明なままのようだ。

 今の三人には、うすぼんやり微光で彩られたようには見えている。

 割と細部まで見えるが、それだけにそのとても地球上の生物学の法則とは相容れない奇怪さがますます浮かび上がるばかり。

 小学校中学年程度の子供ほどの大きさ。

 それにしても、どこが頭でどこが肢なのか。

 束ねられた触手のように見えるが、先端には鈎爪が、表面には更に微細な鈎爪のような突起が無数に生え……

 

「宇津木さん」

 

 光紀が真名と善巳を、正面から見据える。

 

「やりづらいでしょうが、この生き物の写真を撮影しておいてくださいませんか? 後で、そのデータを警察に提供していただきたいのです。それと、八十川さんは、この生き物の死骸を調べてもらいたいのです。獣医師としての見解は参考にさせていただきたい」

 

 正直、それがどの程度有効かはわかりませんが、なるべく詳細な記録を残すのも、我らの仕事です。

 ご協力をお願いします。

 

 光紀にそう言われて、断る理由は真名にも善巳にもない。

 

 早速、真名がカメラを構えて屈み込む。

 

「照明、頭の方から当てますね」

 

 善巳が、恐らく頭に当たるのであろう太くなった方向から、照明を当ててくれる。

 光紀が、邪魔にならないように少し距離を空け、銃を構えて周囲を警戒する。

 星美はそこにいないかのように、少し離れて静かに見守る体勢だ。

 

「これって、何なんだろう……」

 

 思わず、真名の口から疑問が衝いて出る。

 

「すっごく大きな虫? 両生類? タコやイカにもちょっと似てるような気がしますけど、タコやイカは血を吸わないですよね……」

 

 震えそうになる手を抑えながら、シャッターを切る。

 角度を変えたり、転がして死骸の向きを変えて何枚も。

 そのたびに、どんどん恐怖心は強くなる。

 その理性に鈎爪を突き立てるかのような姿は、真名のあらゆる理解を絶している。

 どんな奇妙奇天烈に見える生き物でも、どこかしらに、地球上の他の生き物と共通する特徴、言うなれば目に見える秩序が存在した。

 しかし、この生き物にはそれがない。

 全体の形状、あるいはどの部分を取っても、学校や書物で得た「生物」の知識を裏切っている。

 しかし、にも関わらず、これが生き物であるということは明らかなのだ。

 理性が悲鳴を上げる。

 狂わないうちに逃げ出せと、誰かが頭の中で警告する。

 

 写真をどうにか撮り終えると、真名は照明係を善巳と交代し、更にボイスレコーダーをスタンバイする。

 正直いますぐ逃げ出したい気持ちは嵐の雲みたいに膨れ上がるが、正直これを放置するのはもっと怖いと思える。

 なけなしの人間の文明で照らしておかなければ恐ろしいことが起こるような。

 

「……これ、虫じゃないッスね。こんなデカイ昆虫は、現代の地球にはいないッスよ。魚類でも両生類でも頭足類でも刺胞動物でもないッスね。こんな左右非対称な胴体の形はないし、触手なのか支持肢なのか……。この胴体から幾つもぶら下がっているの、もしかして胃なんッスかね……」

 

 善巳は、何気ない風を装っているつもりではあるのだろう。

 だが、その底に流れる恐怖心は、まるで穴の底のこだまのように、聞く者の心に届く。

 

「触手の先端と、表面の突起の先についている鈎爪みたいなの。鈎爪っていうより、歯なんでしょうね。血を吸い上げるための溝があるッス。体中、口と、歯でビッチリ。胃袋は哺乳類っぽいけど、体の外側ッスよ……」

 

 善巳が暗い天井を仰いだ。

 

「……地球上の生き物ではないのは確かッスね。分類しようがないッス」

 

 星美を除く全員が大きくため息をつく。

 自分たちの文明を支えている学問ではどうしようもない何かが、あまりに無造作に転がっている。

 なにもかも忘れられたらいいのにと思える。

 だが同時に、これと今後二度と関わらなかったとしても、この廃墟のことを本当に忘れられる日は生きている限りないと確信もできるのだ。

 

「あらあら、お疲れのようだけど、大丈夫?」

 

 まるで他人事のように、星美が声をかける。

 

「書斎を探すんでしょう? どこにあるのかしらね、ウフフ……」

 

 ゆっくりと、善巳と真名が立ち上がる。

 光紀と目を交わし合う。

 

 引き返せない。

 やるしかない。

 

 そんな意志を互いに確認し、彼らは、この廃墟の奥へといざなう、暗い廊下へと目を向けたのだった。