思い出す。
『ねえ、そんなところで、何してるの? あんなのと遊んじゃダメよ?』
まるで幼い頃聞いた母親の声みたいに。
穏やかに耳に染み込んだその麗しい声に、凍てつく恐怖心が一瞬溶ける。
振り返る。
女だ。
白地に、様々な色彩の、蝶の乱舞を染め抜いた着物の女である。
どういう訳だか、真っ白で繊細なヴェールを被っていて、顔はわからない。
ただ、ヴェールの裾から零れ落ちる、真珠母色の豪奢な巻き毛がまばゆい。
日傘としてさしている華麗な雲紋様の和傘。
普通に考えて奇天烈ないでたちなのに、何故か、真名には、それが安心できたのだ。
『……ああ、あいつらね。片付けておくから、見ちゃダメよ?』
くすくすとそのヴェールの女が笑う。
振り返れば、血に染まり、白と赤のまだらとなった白昼の路上で、「あれ」が……
視界を、幾筋も流れる、七色の光の筋が通り抜けたと思ったのを最後に、記憶は途絶えた。
◇ ◆ ◇
ああ、ようやく、ここだと、宇津木真名(うつぎまな)は看板を見上げる。
既に昼の熱気が忍び寄る夏の午前中、トルコ石みたいに鈍い東京の青空も日差しに洗われる。
それでも澄んだ気配のある日差しの中、商業ビルの一角、地下へ続く階段。
その脇のプレート看板には、レーザー彫刻で繊細な蝶を掘り出したアクリル看板が掲げられている。
「占いの館 不死蝶の宮(ふしちょうのみや)」。
そんな店名が夏の日差しに端正な黒を見せる。
真名は腕時計に目を落とす。
予約した時間の十分前。
「行くか」
小さく独りごち、薄緑色の石材プレートが貼られた階段を、地下へと下りる。
知る人ぞ知る、「よく当たる占いの館」。
不思議な店主の評判と相まって、そろそろ「知る人」だけのものではないが。
地下一階のさほど広くない廊下を歩き、すぐ先の褐色の扉を開けると、冷房のひんやりした空気が押し寄せる。
小さな待合室らしき場所、ソファには自分以外に人影がない。
真名は、ショルダーバッグを傍らに、ソファに腰を下ろす。
ベージュと茄子紺の落ち着いたソファカバーを何となく見回し、藤編みのパーテンションで仕切られた奥の占い部屋の入口であろう場所をじっと見据える。
この向こうに。
『宇津木真名さん。お入りください』
不意に、壁に据えられたスピーカーから、甘い女の声が流れ出る。
まるで催眠術にかけられたように、真名はついと立ち上がり。
パーテーションを回って、褐色の趣味のいい木製扉のドアノブをノック、開く。
薄暗い室内、すりガラスに浮彫にされた蝶のシルエットが浮かび上がるテーブルランプが据えられた大きな机の向こうに、真っ白なレースのヴェールを頭から被った人影。
一瞬ぎょっとするものの、何だか妙に惹きつけられるものも感じる、奇妙な魅力。
その女は、記憶にあるのと似た、白い絹の着物を纏っている。
色とりどりの蝶と沙羅の花が刺繍された爽やかながらも艶麗なもの。
頭をすっぽり覆い、顔立ちが完全に隠れた白いレースのヴェールの目元は、何となく透けている。
美しい目のように思えるが、妙に光が強く、吸い込まれるようで、なんだか怖い。
ダイヤモンドみたいに、反射する光が鮮やかだ。
あまり見詰めすぎると、自分が消えてなくなりそうな蠱惑。
「初めまして、占い師の相馬星美(そうまほしみ)です。今日は、どのようなご相談でしょう?」
甘やかな声に促され、真名は木製の椅子を引いて座る。
「あの……先生。今日は占いというよりは……相談なんです。こんなこと、誰にも言えないんです。先生ならもしかして、と思いまして」
ごくりとつばを飲み込んでから切り出すと、ヴェールに覆われた小さな頭がかしげられる。
ヴェールの裾から流れ落ちる、真珠みたいにうっすら七色に輝く銀髪は、ウィッグなのか。染めているのか。
「まあ……どんなご相談でしょう? 人間関係なんかでは、なさそう、ですね?」
言い当てられ、ぎくりとするが、真名は気を取り直す。
この人は、あそこにいたはずだ。
もしかして、覚えているのではないか、私のことを。
覚えていない風だけど、あるいは、思い出してくれるかも。
◇ ◆ ◇
去年のことでした。
私は、まだ大手新聞社のT社に勤めている、新聞記者でした。
それ、比較的、私の当時の自宅の近辺でして。
おかしな噂が立ったんです。
犬や猫なんかが、ミイラになって見つかるって。
外来種の動物が住み着いたんじゃないかって、近隣でも有名になってまして。
ちょうど、その話題で大きな事件になったのを取材した後だったので、これもシリーズ的に追跡せねばと。
行ったんです。
その場所に。
近所の駐車場で、裏が雑木林の空き地になってましてね。
何か住み着いてそうだなとは、最初に見て思いました。
ハクビシンだったかな、そんなのを見たことがあったので、そういうのかもとは思いましたが、一応。
駐車場のオーナーの方に許可をいただいて、隠しカメラをしかけて。
翌朝、チェックに行った時でした。
人気のない駐車場で、何かが動いていました。
猫、だったんです。
よく見かける野良でハチワレの……
でも、おかしい。
自分で動いているのかと思ったら、違うんです。
人間の子供くらいの、「何か」がのしかかって、その子の喉笛を食いちぎっていたんです。
首がぐらぐらって。
驚いて、声を上げてしまいました。
記者やってると色々ありますから、そう驚かないようにはしてたんですが。
あの時ばかりは、頭が真っ白になりました。
「何か」って、なんだってお思いでしょう?
私にもわかりませんでした。
今になっても見当もつきません、どんな図鑑に当たっても記載されてない動物なんですもの。
こう……
実体がない幽霊みたいな……
馬鹿なこと言ってるって、お思いでしょうね。
でも、これはふざけてるんじゃなくて、本当にそんな風にしか見えないんです。
なんていうか、空間が半透明のゲルみたいで、それがぐにゃって引っ掻き回されて歪んでるみたいな……
幽霊って、あんな風に見えるんでしょうか……?
どういうシルエットだったのかも……
なんていえばいいのか、棘っていうか、鉤爪の生えた腕か脚、なんでしょうかね、尖ったものが見えた気がしますが、ぐにゃぐにゃした何かも見えたような……。
およそ似てる動物がいないんです。
呆然としました。
もう、予想もつかなかったことで、どうしていいのかわからなくなって呆気に取られてしまって。
そしたら、猫を吸いつくしたのか、その幽霊みたいなおかしな生き物が、ずるりという感じで、こっちに……。